第91回読書会 2024年11月17日(日)午後4時00分~午後6時00分 @Zoom
■レポーター:板垣、大武
参加者:菅原、髙瀬、大武、板垣、田浦、小宮山
いよいよ最終章となる第21章の前半を板垣くん、後半を大武さんが担当した。
前章でのハイタワーの追憶と消えゆく意識の描写の後に続くのはどのような語りなのか、という我われの期待をゆるやかに裏切るように、最終章はある種のエピローグのような、物語の外枠的な構成をしていた。語りの枠は、修理した家具をトラックで運搬していた家具屋が、ミシシッピ州で拾った二人の奇妙な人物(赤ん坊を抱えたリーナと付き添いのバンチ)との出来事を回想しながら、寝床で妻に話しているというものだ。彼は二人(厳密には三人)をトラックに乗せてやり、車中泊させながらテネシー州の先へと運んでやった。物語は、「あらあら、人間って本当に動くことができるのね。あたしたちアラバマを出て2か月も経っていないのに、もうテネシーにいるんだから」というリーナのセリフで幕を下ろす。
車中の会話でリーナが「ジェファソンから来た」と言うと、“Where they lynched that nigger”と家具屋は答える。「クリスマス」は無名の“that nigger”として町の外で噂になっていることを示すこの家具屋の発言は、すでにジェファソンでの出来事が物語になったことを示している、と報告者から指摘があった。またリーナと赤ん坊をまめまめしく世話するバイロンのことを、家具屋は“desperate”と形容する。この語は絶望的であり彼の手に負えないという意味のほかに、彼女を欲しくてたまらないという男女の性欲に結びつけることに気付く前の、家具屋から見たバイロンの複雑な思考を言語化する表現だとの指摘もあった。
さらに本作の大きなテーマでもある「移動」についての議論もあった。狂言回しのような最後の語り手(あるいは目撃者)として登場した家具屋は、“a furniture repairer and dealer”である。またリーナの最後のセリフは “A body does get around(人間って本当に移動するのね)”と書かれていることから、家具屋はリーナ、バイロン、そして赤ん坊の三人の動き回る身体(body)を運ぶ者としても読めることを報告者は指摘した。つまりは、移動するリーナが登場した物語のはじまり(第1章)と、三つの身体がまた違う町へ運ばれてゆく最後(第21章)は、臨月のリーナの体型が出産を経て変わったという大きな変化を挟みながらも、頭とお尻が繋がっている円環的な構成となっていたことを最後に我われは知る。
さて、本作は一体誰についての物語だったのか?ハイタワーの物語は前章で完結したが、最終的には誰の物語だったか特定できないオムニバス形式な印象もあるし、「みんなに助けてもらいながら移動する女の子」というアメリカの物語ともいえる。そして最終章に至っては、男が女にピロートークで語った話(しかも多少面白おかしく脚色しながらretoldしているであろう話)なので、結局のところよくわからないところも多い。約2年間わたしたちはリーナ、バイロン、クリスマス、ハイタワーと付き合ってきたわけだが、「複雑ということは具体的で、具体的ということは明晰である」(by板垣)という読後感(と若干のもやもや)を抱きながら、みんなそれぞれの観点で論文にしてゆきたいね、と語り合った。2年間、クリスマスやハイタワーたちとじっくり付き合ってきてとても楽しかったです。
次回から数回はメルヴィルとホーソーンの短編を挟み、次の作品へ我われも移動してゆきます。
(報告者:小宮山真美子)
第96回読書会 2024年9月4日(水)午後1時~午後2時半
■レポーター:田浦、菅原
参加者:菅原、小宮山、髙瀬、大武、田浦、髙橋、菅田、板垣
今回は第19章を読んだ。章の前半は今までの物語を外から見るような構成になっており、この章では新しい登場人物が4人登場することが発表者から指摘された。このうち、ギャヴィン・スティーブンスという弁護士とその友人が挙げられるのだが、ディスカッションではクリスマスの動向などがこの2人の(高い知性を持っていると思われる)人物の憶測や伝聞を通じてしか分からないことに注目が集まった。すなわち、物語のクライマクス付近に至って町の人々のざわめきが締め出されるということだが、こういう点に19世紀と20世紀の小説作法の違いを感じとる意見も出た。発表者は“machinery for hoping”といった箇所を挙げ、ハインズ夫人の「カチッ」とした音を聞き取る。それは、自分の孫を救済への道になんとか導けないかという情念が作動した音である。クリスマス自身は自分という存在についていつまでも「カチッ」としない。それでも、発表者がクリスマスの何事かを強く感得した“He … defied the black blood”という箇所が指す通り、彼は黒い血を拒絶することによって死を迎え入れたのである。
後半では白人至上主義者の若者、パーシー・グリムがクリスマスを捕らえるための自警団を組織し、クリスマスを追いつめるまでが語られる。発表者の言葉で言うと「捕物帳」のような場面である。クリスマスとグリムがにらみあうアクション映画的なセンテンスが挙げられたが、発表者は「アメリカ(南部の正義)を体現するグリムとはみ出し者のクリスマスの交錯地点」であると述べた。グリムはクリスマスをにらみつけるが、グリムの仲間たちは彼に凄惨に去勢されたクリスマスを直視できない。ディスカッションでは、その様子が“they saw”や“seem”の使用などに示されていることが盛んに話し合われた。フォークナーはクリスマスの血の正体や暴力を受けた姿を読者から隠しているわけであり、その効果について議論は盛り上がった。また、グリムもどこか「機械的」な人物であり、一方でクリスマスを追い詰める途中で“joy”に浸っていくことなども言及された。
*今回の読書会は9月4日から9月6日まで軽井沢で開催された研究合宿で行われた。
(報告者:板垣真任)
第95回読書会 2024年7月30日(火)午後3時~午後5時(Zoom)
■レポーター:大武、板垣
参加者:菅原、小宮山、板垣、田浦、大武、高瀬
『八月の光』Chapter 18の前半を大武さん、後半を板垣くんが担当した。街に戻ったバイロンは、下宿先のミセス・ビアードへ別れの挨拶を告げに行き、その後、保安官にブラウンをリーナの元へ連れて行ったほうがよいと話をする。保安官がブラウンをリーナのところへ連れて行く様子をバイロンが隠れて見ていると、ブラウンは小屋の裏から逃げ出す。バイロンはラバでブラウンの後を追う。逃げ出したブラウンは黒人の老婆のいる小屋へたどり着いた。そこで黒人の大男を捕まえ、保安官に伝言を頼む。バイロンはその男からブラウンの居場所を知り、ブラウンに喧嘩を挑むが負ける。バンチはブラウンが汽車に乗って逃げるのを目撃し、街からやって来た馬車とすれ違うとき、クリスマスが殺されたことを知った。
前半では、バイロンがブラウンのことを思考する様子やブラウンを追って動き回る足取りなどに注目が集まった。特に、ブラウンがリーナと赤ん坊のいる小屋から逃げ出す様子を丘の上からバイロンが見つめるという構図は面白いという意見が多かった。また、本作のクライマックスに向けて重要人物となるパーシー・グリムがこの章で登場することに大武さんが言及した。
後半は逃走するブラウンが黒人たちを使ってなんとかして賞金を手に入れようとする様子や、バイロンとブラウンの喧嘩、汽車で逃走するブラウンなど興味深い展開が多かった。板垣くんが指摘した蛇などの動物のイメージで語られるブラウンや言葉をうまく使えず視線で描写されるブラウンなどにコメントが集まった。 (報告者:髙瀬祐子)
*読書会の後、合宿についての打ち合わせを行なった。次回の読書会は軽井沢での開催となる。
第94回読書会 2024年6月23日(日)午後3時〜午後6時 (Zoom)
■レポーター:小宮山、髙瀬
参加者:大武、菅原、小宮山、髙瀬、大武、板垣、田浦
今回はLight in Augustの第十七章を読み終えた。本章ではリーナの出産をめぐる出来事が語られる。バイロンは医者を呼びに行く前に、ハイタワー牧師の家を訪れる。ハイタワーには黒人の子供をとりあげた経験があり、彼にも助けを求めたのだ。そして、バイロンが医者を連れてきた頃には、すでにリーナは出産を終えた後だった。それが月曜の朝だった。出産に立ち会ったハインズ夫人は、リーナのことを娘のミリーだと思い込んでおり、赤ん坊のことは「ジョーイ」と呼んだ。生まれた赤ん坊は男の子だった。
出産に立ち会ったハイタワーは、リーナに対し、彼に好意を寄せるバイロンを放してやってくれと頼む。だが、リーナの方では、すでに彼に結婚を申し込まれ、それを断ったあとだった。その後、ハイタワーはバイロンの職場の製板工場を訪ねる。彼はすで仕事に辞めた後で、同僚は、下町の裁判所に行けばバイロンが見つかるかもしれないと述べた。その日はジョー・クリスマスの大陪審(grand jury)が開かれる日だった。
前半を担当した髙瀬は、バイロンがドアの外で赤ん坊の泣き声を聞き、彼にひどいことが生じた場面(something terrible happened to him)に注目する。バイロンの〈気づき〉の描写は、彼の混乱が反映されたかのように、時系列が錯綜した状態で表現されている。参加者全体で、その混沌を整理する作業が行われた。本章で、バイロンはリーナが処女ではなく、彼女にはルーカス・バーチ(a Lucas Burch)という男がいたことをようやく実感した。この章は、バイロンが現実に「連れ戻されるすごい章」である、との参加者から言葉が印象に残った。
後半を担当した小宮山は、リーナが出産を終えたあとのハインズ夫人の「荒々しさ」に注意を向ける。夫人は赤子を「ひったくろうと(snatch)」し、また夫に対しては謎の「勝利(triumphant)」の感覚を抱いている。それは、今度は子供をとられないぞ、という意思表示かもしれない。そして、その勝利の感覚は、ハイタワーが「自らとりあげた子供(child that I delivered)」に対して思いをめぐる場面にも満ち溢れていると小宮山は指摘する。
本章は、出産への立ち会いを通し、ハイタワーが町のコミュニティへと戻っていく章なのかもしれない。隠居していたはずの彼は、クライマックスに向かうについて、急にさまざまなことを頼まれだすのだ。そのハイタワーの浮かれ具合をどう思うか、参加者からさまざまな感想が寄せられた。
(報告者:田浦紘一朗)
第93回読書会 2024年4月28日(日)午後3時~午後5時(Zoom)
■レポーター:田浦、菅原
参加者:菅原、小宮山、髙瀬、田浦、板垣、大武
16章の始まりはmulberryが描写されるような「のどかな」始まりであるが、登場人物全員(あっけなく死が描かれたミリーを除いて)に語るための「声」を与えるフォークナーのこだわりを感じる濃厚な章であった。発表者は、現在時制による語りの特徴を指摘し、映画や演劇のト書きを連想させること、現在時制は読者が得る情報に「臨場感」を与えるというコメントをした。そのような臨場感や「情報の鮮度」はしかし、読者が理路整然と理解する“get it straight”助けにはならない。paramourという単語がブラウンとバイロンを指していることを読者に読み解かせるのは、「物語の概要づくりには読み手の操作が必要」と発表者が指摘する、物語にちりばめられた「わからなさ」の一例だろうか。ディスカッションでは、シングルクオーテーションで括られたクリスマスの祖父母であるというハインズ夫妻のセリフの長さ、直接話法の中でさらにダブルクォーテーションで括られたセリフといった声の重なりにも注目が集まった。ハインズによって語られるMexican manやサーカス、テキサスといった南部文化の表象についても理解が不足しており、今後の課題の一つとなった。
章の後半では、15章で登場したハインズ夫妻の役割が明らかになり、特にハインズ婦人に注目が集まった。30年前に連れ去られた孫を一目見たいという婦人の原動力が孫への愛情であるという発表に対して、愛情というよりは血縁へのこだわりなのではないかという議論が印象的だったが、これはフォークナーの情報の出し方や「わからなさ」が様々なアイディアを読者に引き寄せるのだという参加者からのコメントに繋がる気がした。発表後のディスカッションでは、1932年に出版された本作品で実験的な試みを行っただろうフォークナーの企みを読み解こうとするコメントが多かった。ディスカッションでは、セリフが終わる際の印になっているceaseという動詞が取り上げられてceaseには単なる中断だけではなく、聞こえていた声がやみ、演者が舞台を去るような演劇的な要素を見て取りつつも、演じる俳優は本当にceaseという動作を体現できるのかという問いかけもあり、『八月の光』で論文を書くためのヒントが満載の回だった。(報告者:大武佑)
*終了後は夏合宿の日程調整の話し合いをした。
第92回読書会 2024年3月18日(金)午後1時00分~午後3時00分 @Zoom
■レポーター:大武、板垣
参加者:菅原、小宮山、板垣、田浦、松丸、大武、高瀬
『八月の光』Chapter 14を大武さん、15を板垣くんが担当した。
Chapter 14はクリスマスの逃亡劇が描かれる。クリスマスは教会で暴れ、靴を黒人と交換したりしながら逃亡を続ける。クリスマスはモッツタウンに行くという荷馬車に乗せてもらい、モッツタウンに向かった。「食べ物ではなく、食べることが必要」と言うクリスマスや、食べ物より今何曜日なのかを気にするクリスマスのことなどへレスポンスがあり、また大武さんがあげたセンテンスにおけるnativeとforeigner、the unswimming sailorなどの言葉への注目が集まった。
Chapter 15では、モッツタウンが舞台となる。クリスマスがモッツタウンに降り立ち、捕まり、ジェファソンへ移送されるまでの出来事が町の人の伝聞形式で書かれている。そこにハインズ夫妻という新たな登場人物が登場する。ハインズ夫妻はクリスマスのことを知っている様子であり、クリスマスの話を聞くと、夫は取り乱し、妻は正装してクリスマスに会いに行く。このハインズ夫妻の様子が面白く、子供をあやすように夫をなだめる妻や妻の帽子の羽根飾りなどについてコメントがあった。また、クリスマスについて語る町の人々の言動から、クリスマスが記号として流布し、(彼にかけられた賞金も含めて)流通する過程やクリスマスが捕まって、ハインズ夫妻が彼を追いかけジェファソンに向かう時系列についても盛り上がった。(報告者:髙瀬祐子)
第91回読書会 2024年1月26日(金)午後3時00分~午後5時00分 @Zoom
テキスト: William Faulkner, Light in August
■レポーター:松丸、髙瀬
参加者:菅原、高瀬、大武、板垣、田浦、松丸、小宮山
今回は第13章の前半を松丸さん、後半を髙瀬さんが担当した。前半部では火事の現場とそこに転がるシーツに包まれた女の死体、そして保安官が実況見分する共同体に焦点が当てられ、後半ではハイタワーとバイロンが語り合うプライヴェートな狭い空間へと転換された。
死体に群がりそれを見下ろす白人たちは北部人、貧乏白人(プア・ホワイト)、北部で暮らしたことのある南部人といった具合にフォークナーの筆により分類されながらも、殺人犯は黒人だといっしょくたに騒ぎ立てた。発表者はこの様子を、「感情のバーベキューパーティ」[emotional barbecue]と「ローマの休日」(他人の苦しみによって得られる娯楽という意味を持つ)という単語を挙げ、コミュニティにおける鬱積した白人の群集心理を説明した。また本来は「寄贈する」という意味を持つ“bequeath”が、「後世の人に伝える、残す」という意味で使われていることを確認した上で、「女の死体が村の人々に話題を提供することで(女が)生き返った」と指摘した。
前半では過去形で語られてた物語は、ハイタワーとバイロンのシーンで現在形となり、読者はここで「戻ってきた」感覚を受ける。バイロンは殺人犯に1000ドルの懸賞金が賭けられたこと、リーナをブラウンの住んでいた小屋に移し、見張り役の黒人女も近くに置き、さらにバイロン自身も付近にテントを用意したことをハイタワーに伝える。最初はバイロンに町から出てゆくよう助言していたハイタワーも、最後にはバイロンの行動力に根負けする。興味深いのは、女をかくまうことを決意したバイロンは「新しい声」ですらすらと喋りはじめ、発表者の言葉を借りると「Newバイロン」が誕生したことだ。そんなバイロンの変化は、ハイタワーの目と耳を通して読者に伝えられ、バイロンは読まれる対象としてテクストに書きつけられているとの指摘があった。またハイタワーがバイロンとリーナの件に巻き込まれそうになったとき、”I wont! I wont! I have bought immunity. I have paid.”(229, 230)と繰り返し独りごちたことから、この「免罪[immunity]」が何を意味しているのかという議論もなされた。
今回は火事の場面で、本作の冒頭部にあった煙の柱を別の角度から再確認したり、荷馬車から降りる臨月のリーナの姿を再び目にすることで、ようやく本筋の物語時間に戻ってきた感覚がした。またバイロンがハイタワーの家に訪れるとき、「いつも階段のいちばん下の段で躓くのに、今回は躓かなかったね」と足音でバイロンの変化を認識するハイタワーの逸話にようやくお目にかかれたのが、個人的なハイライトでした。 (報告者:小宮山真美子)
第90回読書会 2023年12月25日 午後2時30分~午後4時30分 @代沢・下河辺邸
テキスト: William Faulkner, Light in August
■レポーター:小宮山、田浦
参加者:髙瀬、大武、板垣、松丸、菅原
今回は、第12章 (p.189-212) を読んだ。前半では、バーデンとクリスマスの関係が、落ち着いた第1段階から、次の段階に入ったことが語られる。この段階で、2人の時間は肉欲にかられたものとなったが、ジョーの方では「女性から何かを常に隠すよう運命づけられていた」(“. . . he was doomed to conceal always something from the women. . . (193))と感じているとされ、何か女性に対する形容しがたい原体験があるのでは、という論考がなされた。
また、後半では、第3段階とされる関係性が語られる。冷え切った2人の関係は破滅へと進んでいく。2人の対面は、バーデンの置き手紙を介さなければ成り立たないほどの、心的な乖離が描かれるが、ジョーによってこの手紙は読まれない。フォークナーは、手紙が開かれないという設定が好きなのではないか、そしてそのことは、謎めいたものの存在感を醸し出しているといった意見も出た。また、黒人学校へ行くことを勧められるジョーが、それを拒否する場面について、自分が何者であるかを、外部から規定されることへのジョーの恐怖が読み取れるという解釈も提示された。
本章では、製材所の同僚であるブラウンがしばらくぶりに登場し、プロットは物語の現在へと回帰していくことになった。
*今回の読書会の開催日である、2023年の12月25日は月曜日で、次の週初めには2024年になっています。整然と、あっという間に年末時間が過ぎています。
*クリスマス会をかねて代沢の下河辺宅で行った。終了後ピザパーティ。
(報告者:菅原大一太)
第89回読書会 2023年11月23日(木) 午後2時半~午後5時(Zoom)
■レポーター:菅原、板垣
参加者:菅原、小宮山、髙瀬、大武、田浦、松丸、板垣
第11章を前半と後半に分けて読んだ。章の前半はクリスマスとミスバーデンの関係についての議論と、解釈を議論する際の言葉遣いについての議論から始まった。テクスト内ではクリスマスの感情についてrageなど「怒り」に関する描写が頻出するにもかかわらず、テクストを解釈して内容を議論する際には「怒り」とは別の言葉(「むなしさ」)が出てきてしまうのは、読者がフォークナーによって各々の解釈や言葉遣いをしたくなるように導かれているからだろうか。論文執筆時における自分の言葉遣いやフレーズが読み手にどう届くかという点に意識的になる必要があることを思い出させた。前半では、自分の肉体に距離を置いて俯瞰しているクリスマスの視点や「手」が視覚に先行して感知する様子(His hands saw)など、ミスバーデンよりもクリスマス/語り手に注目が集まった。多用されるas if、as thoughという表現からは、それがクリスマスの声なのか、語り手の声なのかすぐには判別できず、「幾層にもとれる」読みがあるという指摘があった。クリスマスを相手にしたミスバーデンの語りが唐突に始まると、読者は様々な地名、人名、宗教といった固有名詞にさらされ、バーデン家の複雑な家系の情報を読み解くことにいざなわれた。
後半は南北戦争に関わる語彙についての指摘から始まった。発表者が取り上げたeasternersという語は単に「東部地方の人たち」という辞書の定義だけではなく、「南北戦争後にアメリカが西へと広がっていく際に東からやってき(て西部に悪評をもたらし)た人たち」という歴史的背景を含む語であり、こうした読みの積み重ねが精密な読みを支えると気づかされた。ミスバーデン(ジョアナ)視点とクリスマス視点の二つの視点を中心にした発表の中でも、ミスバーデンの声色がalmost gentleに変わっていく点や、クリスマスの声や表情に形容詞が重ねられることで、読者は自分の読みを「考える方向にいざなわれる」のだという意見が耳に残った。また、ミスバーデンの父親のセリフにあるdoom and curseに着目した際の不定冠詞について、a raceがthe white raceに言い換えられることで提示される情報が絞られていくという指摘と、hisという所有代名詞が具体的に示されないものを指す語としても用いられるという指摘ではテクストに対する予習の緻密さに驚かされた。前半、後半を通して、一つのテクストを皆で読むことで得られるものの豊かさを改めて実感する回となった。
(報告者:大武 佑)
第88回読書会 2023年9月6日(水)午後13時00分〜午後14時30分
■レポーター:大武、松丸
参加者:菅原、小宮山、高瀬、大武、板垣、松丸、田浦、高橋、菅田
今回はLight in Augustの第九・十章を読み終えた。第九章、ウェイトレスのボビーと一緒にいる姿を目撃されたジョーは、襲いかかってきたマッケカーンを椅子で殴り倒す。家に戻ったジョーは、マッケカーン夫人の金を奪い、ボビーを迎えに行くが、そこで彼が受けた対応は冷ややかなものだった。本章を担当した大武は、ジョーの言葉の変化や言い直し、フォークナーが用いる「二枚の紙切れ(two scraps of paper)」の比喩から、ジョーの思考の動きを注意深く読み解いた。ジョーにとって、ボビー以外の人物は風に吹き飛ばされる「紙切れ」のような存在だった。ただし、自らの人種性を侮辱するようなボビーの一言(「白人並に相手してきてやった…」)によって、彼女もまた、「三枚目の紙切れ」として彼の人生から消え去っていくのだった。
十章を担当した松丸は、「荒涼とした寂しい千の通り(a thousand savage and lonely streets)」についての描写を中心に、クリスマスの移動の痕跡を丁寧に辿った。クリスマスは様々な職を転々とし、先々で商売女たちと寝る中で、自分が黒人であることを気にもとめない女がいることを知った。それは彼が北部に足を踏み入れてからのことだ。その後、デトロイトに到着したクリスマスは、彼のことを白人と呼ぶ黒人に交じって暮らし始める。発表者が特に注目したのは、側に横たわる黒人女性の匂いを吸い込み、クリスマスが自らの肺を「黒人らしさ」で満たそうとする場面だ。その「目に見えぬ黒さ」を、クリスマスはどう感じているのだろうか。その例として挙がったのは、海外の空港に降りたったときに感じるその土地独特の匂い、いわゆる異国臭さだ。ただし、そのような他者の匂いを知覚できる場合、クリスマス自身は自らをどのような人間として捉えているのだろうか。テクストの嗅覚表象について、参加者から多くのレスポンスが挙がった。 (報告者:田浦紘一朗)
*今回の読書会は軽井沢での夏合宿にて行われ、遠藤ゼミから高橋君と菅田君がゲスト参加した。
第87回読書会 2023年7月22日(土) 午後1時00分~午後3時00分 @Zoomにて
■レポーター:田浦、髙瀬
参加者:小宮山、大武、板垣、松丸、菅原
今回の読書会では、第8章 (p.125-147) を2パートに分けて読んだ。前半は、ジョー・クリスマスがマッケカーンの家を夜分に抜け出して、ボビーという名のウェイトレスに会いに行く場面から始まる。そして、そこから最初に彼女と出会った日の思い出に、テクストはジョーを連結する。マッケッカーンに連れられて入った町場のレストランで、ジョーは彼女をはじめて見知ったのだが、彼女の様子は、“demure”(取り澄ました)と表現される。この言葉が、実際は性的な商売もする彼女の様子を描写するのに、複数回用いられていることから、テクストが我々読者に謎というものの魅力を提示し、また、当時のジョーが表向きの世界にどうしても抗え切れない様子が、影絵として彼の感じる神秘さへとつながっているのであろうといった議論がなされた。
後半部は、ジョーが釣りや狩りを一緒にする友達と、月経について話す場面からとなる。ジョーはボビーが生理の日なのを匂わせても、そのことに気が付かない。血を生の表象ととらえられるのならば、たとえ羊を撃って生々しい血液を手にしても、性的に未熟な彼は、この時点では依然として生の充足にはたどり着かない。議論としては、テクストにおける血の存在は、彼が生の根源を知りたがっていたことを示しているという論考もなされた。羊の血で生命を感じることまでした彼は、そもそも設定として里親に育てられて血縁がなく、そしてボビーとは結局疎遠になる。彼がどうしても体現したかった性の2項対立は、挙句の果てに、ぼんやりとした人種の2項対立に置き換えられてしまう。本章の最後で彼がやさぐれるのには、二重の意味があるのかもしれない。
(報告者:菅原大一太)
第86回読書会 2023年6月18日(日)午前2時半~午後4時半
■レポーター:小宮山、菅原
参加者:菅原、小宮山、大武、田浦、松丸、板垣
今回は第7章を読んだ。この章では第6章の最後でマッケカンに引き取られたジョーの8歳から17歳までのエピソードが語られている(発表者の言葉を用いると「時間の隔たり」が多かった章である)。前半の発表ではジョーに”catechism”を覚えさせようとするマッケカンの意図や人格にまず注目が集まった。ジョーに執拗に鞭をふるうとしても、当時の厳格な教父としてはマッケカンは平均的な人物なのかもしれない。だとすると、頑固(執拗)に”catechism”を覚えようとしないジョーもまた興味深い。ジョーが性行為に及ぼうとする場面があったが、そこに「父なるもの」の抑圧があるかもしれないという意見も出た。かつ、彼は性行為の相手を拒絶し蹴散らしてしまう。このときのきっかけになる感覚が「匂い」であり、前回に引き続きジョーの五感が綿密に書き込まれているという点が話題に出た。「見てはいないが聞いている」というような表現が多いという指摘は非常に耳に残った。
第7章後半では「男、あるいは父なるもの」だけではなく「女なるもの」へのジョーの意識も深く書き込まれる。ジョーにとって男は論理的で女は”unpredictable”な存在である。ジョーにとって謎なのは自分が目にしてきた女性の親切さや従順さであろうか。発表からディスカッションの時間まで女性を語る言葉の使い方が多々言及された。「マッケカン夫人は”mallable metal”のようにずっとハンマーで叩かれてきた」という文に対して「鞭よりハンマーのほうがひどい」という指摘はなるほどと思った。この章に登場する女性はマッケカン夫人のみであり、テクストにおける”the woman”も素直に読めば彼女を指していると言えるが、実は「女一般」を指しているのではないか?という議論があった。発表者は「強調構文が多いように思える」と言い、”It was the woman…”という書き出しのセンテンスに言及したが、同様の構造を持つセンテンスが章の最後で何度も出てくる。これには驚かされた。その他、他人に世話されることが不慣れなジョーの、いつも身構えてしまうような自意識が言及された。いっぽうで彼は脚を洗ってもらって”too good”と感じてしまっている、という指摘は非常に面白かった。
*読書会終了後は合宿の打ち合わせを少々。
(報告者:板垣真任)
第85回 2023年5月6日(土)午後3時~午後5時10分@Zoom
■レポーター:松丸、板垣
参加者:菅原、小宮山、板垣、田浦、松丸、大武、高瀬
『八月の光』Chapter 6の前半を板垣くん、後半を松丸さんが担当した。以前補足として下河辺先生から説明があったようにChapter6からの数章は、フォークナーが後から執筆して挿入したクリスマスの半生の物語であり、Chapter 6はその冒頭である。5歳のクリスマスが孤児院で栄養士の情事を目撃し、その後孤児院を連れ出されてマッカケーンのところに引き取られることになる顛末が描かれている。
前半では非常に凝った冒頭部分に関する板垣くんのコメントもあり、物語が一気に狭い囲まれた世界へと場面を移す点が大変興味深かった。また、クリスマスが栄養士の部屋のカーテンの後ろに隠れているので、5歳の男児が外を耳で知る様子がhear, listen, voice, soundなど音、声、聴覚に関する単語によって描写されている。
後半は、雑用係とクリスマスが孤児院から消えた後の院長と栄養士のやり取りから始まる。ここで栄養士はクリスマスがniggerであると主張するが、結局はっきりとしたことはわからないままである。smellなど匂いと嗅覚に関する描写も印象的に使われており、前半部分に登場するフォークナーの造語, womanpinksmelling や pinkwomansmellingと併せて注目が集まった。全体を通して登場するjanitorは謎の男であり、クリスマスを連れ出した張本人であるが、彼がいつから孤児院にいて何をしているのかはよくわからないままだった。
*今回の読書会はGWの週末にzoomにて開催された。読書会終了後に高橋くんも加わり、近況報告と高橋くんの発表練習会の日程調整や合宿の打ち合わせを行った。
(報告者:髙瀬祐子)
第84回読書会 2023年3月24日(金)午後3時00分~午後5時00分 @Zoom
■レポーター:髙瀬、田浦
参加者:菅原、高瀬、大武、板垣、松丸、田浦、小宮山
今回はLight in Augustの第五章を読んだ。この章はジョー・クリスマスにスポットが当てられ、彼の仄暗い人生の側面――黒人の血が混じっており、ミス・バーデンと肉体関係を持ち、さらにウイスキーの密売に関わっている証拠――などが、8月のある晩から翌日の深夜までの丸24時間に及ぶ彼の行動とともに語りの中で明らかにされてゆく。
夜になって酔っぱらって帰ってきたブラウンに, 黒人の血が入っていると罵られたことにイラついたクリスマスは、ブラウンを殴って小屋の外に出て、ひとり馬小屋で眠る。前半部では音量を押えた無数の音(a myriad sounds)がちりばめられており、発表者は「クリスマスの記憶の断片が声/音に喚起される」と共に、「そこに名前、時間、場所などの具体的な記憶が紐づけられている」と指摘した。またミス・バーデンとの肉体関係が仄めかされた場面では、「彼女は年齢について嘘をついていた。女性が或る年齢になると何が起こるかについて」というクリスマスの独白部が引用されて、この発言は女性特有の更年期、つまり妊娠可能な年齢に関係した発言ではないかという議論がなされた。
後半は夜明けから始まる。目が覚めて馬小屋を出た後、クリスマスは地中に埋めた密造酒を掘り起こして処分し、黒人街であるフリードマンタウンに足を踏み入れ、深夜12時ごろに帰宅するという筋である。発表者は“suspended”(宙づりのイメージ)、“strayed out of”(はぐれてしまった感)、“he was in town, he was standing”(その時間に彼がそこに立っていた)という表現を取り上げ、クリスマスの動きは自分の意志というより、主体性がなく動かされている宙吊り感が強いと指摘した。また後半部にも笑い声や夏の匂い、黒人たちの息遣いなどのサウンドが、液体化する街の光とともに充満しており、ピリオドの少ない文体も相まって、重みのあるじめついた緊迫感が五感を通した表現で描かれていた。
五章全体が「ぬるっと、じめっと、ねっちょりと」した手触りが感じられるというコメントが出たほか、「そもそもブラウンとクリスマスはなぜ同居しているのか」という疑問も挙がった。また「ボタンが取れると、ある女が付け直してくれた」というような本筋から外れた情報の挿入は、後になってその内情が明らかになるというフォークナー特有の語りのスタイルだという指摘もあった。下河辺先生から「クリスマスに関する章はフォークナーが後に挿入した箇所である」との解説があった。追加された章が、今後の話にどのように有機的に絡んでゆくのかが楽しみである。 (報告者:小宮山真美子)
第83回読書会 2023年1月21日(土)午前10時00分~午後12時00分 @慶應三田
■レポーター:小宮山、菅原
参加者:髙瀬、板垣、田浦、松丸
Chapter 4の前半を担当者(小宮山さん)は、登場人物たちの視線に注目していた。ハイタワーとバイロンは、ハイタワーの書斎で向かい合って話をしているが、二人は互いを注意深く観察(watch, see)している。発話者は聞き手の表情や身体反応を注意深く見て、僅かに現れる変化の中に意味を読もうと試みている。クリスマスに黒人の血が流れていることを話したバイロンは、僅かに収縮したハイタワーの表情筋に拒否反応を見出している。Chapter 4は室内で物語が展開されているが、この場でどのような音声が鳴っているのかも俎上に上がった。声と音との境界線がないことを下河辺先生が指摘し、本章で発生している音を皆で確認し合った。
虫の声だけが聞こえてくる中で、バイロンとハイタワーは会話を続けている。後半の担当者(菅原さん)は、バイロンが語るブラウンの話を聞くハイタワーの様子に注目する。語り手はハイタワーの顔を垂れる汗を「涙のように汗を流す」と描写している。菅原は、発汗という身体反応への描写が、ハイタワーに隠された別の物語と連結する可能性を指摘していた。
派手な動きこそない章であったが、他者の発言を受けて僅かに変化する表情や発汗という生理反応など、暗い部屋の中にいる登場人物たちの微細な動作が際立つ章だった。
*久々の対面開催で、互いの近況を語り合った。
(報告者:松丸彩乃)
第82回読書会 2022年12月29日(木)午後2時30分~午後5時00分 @Zoom
■レポーター:松丸、板垣
参加者:菅原、小宮山、高瀬、大武、板垣、松丸、田浦
今回はLight in Augustの第三章を読み終えた。章の前半部分では、物語の七年前にジェファソンにやってきたバイロン・バンチの視点を通し、教会牧師として赴任した直後のハイタワーの様子や、彼が「教会と聖職を失う」ことになった経緯が語られる。(前半を担当した松丸は“he lost his church, he lost the Church”という表現に注目した)
南北戦争に従軍した祖父を崇めるハイタワーは、ジェファソンに赴任してからというもの、町の人々に祖父の武勇伝を語り聞かせることにやっきになっている。その熱量は説教壇での話しぶりにも表れており、それはまるで、彼が神の教えと祖父の勇ましい従軍譚とを区別できないかのようだったという。発表者が取り上げた「ごちゃまぜにする」(Get all mixed up / all mixed up)」というフレーズは、本章の意図的な読みづらさや、情報の把握しづらさを象徴しているように思えた。全体の討論では、ハイタワーの話を当時のバイロンにしたのは誰なのかという点に注意が払われ、本章は「町の人々がバイロンに語ったことを、バイロンが語るという伝聞形式におとしこまれている」という確認がなされた。
ただし、後半を担当した板垣は、本章の、特にその後半部分の語りの形式について、「どこからが伝聞で、どこからがバンチ自ら経験したことかが不明瞭である」という点を強調した。バイロンは現在のハイタワーについては自分がもっともよく知っていると思っているが、彼の過去については「町の人々」(they / the people / the town)から聞かされたのだ。語り手としてのバイロンは、自分を「町の人々」とはカウントしていないように感じられる。発表者の言葉を借りれば、「バイロンは読者の方を向き」、起きたことを一般論として述べているような印象を我々に与えている。
その後半では、ハイタワーのリンチというショッキングな出来事が語られる。ハイタワーが牧師を辞任することになったのは、彼の妻の不審死が大きく関係していた。教会には多くの記者が駆けつけ、会衆たちは彼の説教から離れていった。村八分とされたハイタワーだが、辞任後もジェファソンに留まり続けることを選択する。彼は黒人を食事係として雇ったが、それを理由にKKKからリンチ受けた。このエピソードについて、ハイタワーが黒人を雇うことそのものを(町の人々が)排斥する理由は何かとの問いかけが発表者から挙がった。
全体として、フォークナーの語りの複雑さに議論が集まっったが、本章は我々にいくつかのアメリカ文学史的記憶を呼び起こした。ハイタワーはどこか「男版へスター・プリン」のようでもあり、また説教の際の彼の”wild”な態度は、ディムズデール牧師の興奮した姿も思わせるのだ。(報告者:田浦紘一朗)
第81回読書会 2022年11月23日(水)午後3時00分~午後5時00分 @Zoom
テキスト: William Faulkner, Light in August
■レポーター:田浦、髙瀬
参加者:小宮山、大武、板垣、松丸、菅原
今回の読書会では 第2章の後半部を読んだ。対象箇所を2つに分けた上で、その前半部はクリスマスとブラウンの人物像が、工場の他の従業員の視線や伝聞から描かれる。週末にはギャンブルですってしまっているだとか、二人が土曜の夜に一緒にいたなどと語られ、さらに、すぐに仕事に来なくなるだろうというような人物評も述べられる。案の定、この2人は仕事場に来なくなってしまう。読書会での議論としては、この2人の様子が、工場の人物らの観察から構築されていくところが興味深いという意見が出た。
また、今回の範囲の後半では、工場の外でのバイロン・バンチの日常が全知の視点から語られ、そのなかでハイタワーという、ジェファソンからはじき出された牧師が新たにテクストに登場する。そして、リーナのルーカス探しは延々と続いているが、大火事を遠くに見るバイロンが彼女を工場で迎え入れることとなった。その際、リーナとバンチの視線が、バンチのリーナへの恋心によってあおられて交わらないところが、臨場感にあふれてていて面白いという意見も出た。作中人物の人物像が、多く憶測によって語られるのに対して、バンチのリーナに対しての恋愛感情の方は、前提条件かのようにあからさまに語られていた点が、とても対照的で個人的には大変興味深かった。(報告者:菅原大一太)
第80回読書会 2022年10月16日(日)午前2時~午後4時
■レポーター:小宮山、菅原
参加者:菅原、小宮山、髙瀬、大武、田浦、松丸、板垣
今回は第1章の最後と第2章の冒頭を読んだ。発表者いわく、リーナは周りの男たちの話を「ぜんぜん聞いていない」。ただ、リーナは単にぼんやりしているわけでもなさそうで、フォークナーはリーナの様子について意味を汲み取りづらいセンテンスを書き込んでいる。発表者は“[I]n reality she is waging a mild battle with that providential caution of the old earth of and with and by which she lives. This time she conquers.”という文を挙げ、私達は、“a mild battle”とは何か? リーナは何に勝った(何を制した[conquer])のか? 等々の議論で盛り上がった。発表者からは、彼女は男たちの喋りやリーナに向けられる推測に勝てた(それをやり過ごせた?)のではないかという解釈が提示された。男たちの存在は、“that providential caution of the old earth”ともかかわるのだろう。他には、“ladylike”な存在として見られたいというリーナの自意識や、リーナが買い物をするときの描写の丁寧さ、リーナの胎動を“spasm”という言葉で書くフォークナーの表現力の妥当性などを議論した。
第2章の冒頭では、発表者いわく「到着地の方の話」に視点が移る。つまり、リーナではなくバイロン・バンチの視点を中心とした語りに話が移る。“Byron Bunch knows this:” という文で章は始まる。この文一つ取り上げてみても、“this”の指す物事、現在時制の意味、コロンの機能、等々、メンバーの精読の目が細部まで行き渡り、刺激的であった。発表者は「バンチは他の人物よりも冷静で頭がいい感じ」と発言したが、これに反応して、「(バンチを通じた)情報のリリースが巧みであり、ときに把握が難しい。この感触がフォークナーのテクストなのかもしれない」という言葉が出て、なるほどと思った。他には、クリスマスの衣服の小綺麗さと、それに対する周囲の反感、人種という話題が物語に現れてきたこと、根なし草のようなクリスマスの素性を説明するセンテンスの書き方が論点として挙がった。“[N]o town nor city was his, no street, no walls, no square of earth his home”という文について、「カメラ(の視界)が狭まっていく感じがある」というコメントが出た。最後まで読んだあとに振り返ったら、きっと胸に沈んでくる一文だろう。 (報告者:板垣真任)
第79回読書会 2022年9月6日(火)午後2時~午後4時10分
■レポーター:松丸、板垣
参加者:菅原、小宮山、板垣、田浦、松丸、高橋、大武@zoom、高瀬
『八月の光』の3回目となる今回の読書会は、2年ぶりの開催となったゼミ合宿のセッションの一つとして実施した。今回は、アームステッドの家に着いたリーナが、夫人と自分とルーカスのこれまでの経緯について話をし、次の日、アームステッドはリーナをヴァーナーの店まで送り、ジェファソンまで連れていってくれとそこにいる男たちに頼むところまでを読んだ。
前半はリーナとアームステッド夫人という年齢差があり、立場も違う2人の女の様子に注目が集まった。リーナがルーカスのことを語る際、手は活発に動き、目も輝きに満ちるが、それを聞く夫人の様子はドライである。また、妊娠して子供が生まれるという時間の流れの中に、どこに結婚が入るのか、苗字が変わることについて「もう」も「まだ」も、どちらも“yet”で表されていることについても議論された。
後半は、アームステッド夫婦の寝室で、妻が夫に自分のお金をリーナに渡すように告げる場面があり、その際の“harsh bitter”と表されている夫人の気持ちが推測された。アームステッドからお金を受け取るリーナについては、“less than a pause”という表現が2回繰り返され、喜んでいるのかどうかもはっきりと示されず、「それほど驚かなかった」とも書かれており、フォークナーのどっちつかずの曖昧な筆致について我々が徐々に慣れ、楽しみ初めていることを確認できた。
個人的には、リーナとアームステッド夫人とのやり取りを読む、年齢差のある女性陣の意見交換が大変興味深かった。
*下河辺先生が軽井沢の千ヶ滝に素敵な山荘を整えてくださり、そこで開催する最初の読書会となった。はじめてとは思えないほど、読書会が自然と空間に馴染んでいたように思う。(報告者:髙瀬祐子)
第78回読書会 2022年7月10日(日)午後2時~午後5時
■レポーター:髙瀬、田浦
参加者:菅原、板垣、松丸、小宮山
『八月の光』の二回目は、ジェファソンに向かうリーナが道で2人の男とすれ違い、そのうちの一人アームステッドの馬車に拾われ、彼の家に泊まらせてもらう場面までを精読した。前半の場面ではフォークナーの文体に特徴的な「ずらし方」に注目が集まった。たとえば視線に関する描写は多くあるが、登場人物同士の視線は正面から交差することはない。一方で男たちの視線により、妊婦のリーナ―が結婚指輪をしていなといった情報はめざとく「抜き取られる」。また、固有名詞の登場の仕方にも「ずらし」が見られる。男たちの名前は何度もテクスト上に出てくるが、リーナ―の名は物語の冒頭で言及されたのみで、アームステッドの妻の名「マーサ」も、何の説明もなく突然登場するのである。また返し使用される“reckon”という動詞は南部特有の用法であり(トウェイン作品にも頻出する語彙である)、正面から視線で確認しない代わりに「見なす・考える」といった意味のreckonが多用されているのではないかという意見が共有された。
もうひとつ挙がった語彙表現は、リーナが乗った馬車のラバたちの耳の間に伸びる道について、“road curved”(曲がった)ではなく“roadcarved”(刻みつけられた)という語が使用されている点である。この語を使うことで、リーナがバーチという到着地点を見据えた「距離」を意識しているのではないかという解釈が発表者からなされた。登場人物に関しては、後半で登場するマーサと若くて人生経験が浅いリーナの描かれ方の比較、アームステッドの視点や思考から組み立てられるマーサ像についても議論された。その上で、現時点でどの人物に興味を持って読んでいるかなどの意見交換も行った。(報告者:小宮山真美子)
*読書会の後、9月に開催する夏合宿@軽井沢の打ち合わせを行った。
第77回読書会 2022年5月4日(水)午後2時~午後5時
■レポーター:菅原、小宮山
参加者:髙瀬、板垣、田浦、松丸
今回からフォークナーの長編小説『八月の光』を読み始めた。初回にあたる今回は、フォークナーの用いる手法や基本情報を確認しながら、Chapter 1の10分の1ほどをゆっくりと時間をかけて読んだ。
読書会では、リーナが登場する冒頭に注目が集まった。冒頭の一文では、外側からLenaを見つめる語り手の視点が、次第にリーナの視点と交差し重なっていく。また、フォークナーはリーナにアラバマやミシシッピといった実際の地名を言わせた後で、ドーンズ・ミルという架空の場所を挿入している。これらの手法からは、読者を現実世界から架空のヨクナパトーファーの世界へと徐々に誘おうとするフォークナーの意図があるだろう。その巧みさに一同が思わず感心する一幕もあった。
今回の担当範囲は、実際には一瞬で流れるはずの時間の中で、過去の様々な出来事が回想されていた。イタリック体で表記される所謂内的独白に類する部分には、本人の意識だけでなく他者の言葉も侵入・浮遊する。それらの中で、リーナの社会的地位が次第に明らかになっていくようであった。
フォークナー独特の文体に慣れず、文章の時制とその意味などを確認することに多く時間を割いたが、初心に戻って丁寧な精読を実践した回となった。(報告者:松丸彩乃)
*新学期が始まり、各自、勤務校での授業内容を報告しあい、今後の学会発表の予定を確認しあった。