大学院ゼミ読書会【第二期】

第76回読書会 2022年3月10日(木)午後2時半~午後5時 

■レポーター:松丸、板垣

参加者:菅原、小宮山、板垣、田浦、松丸、高瀬

 今回はWaldenの“Conclusion”を読んだ。前半部分を担当した松丸は、ソローがこの最終章において使用する「境界(bounds)」という単語に注目する。ソローは自己の内面と自然世界とを結びつけ、その未知なる「境界」を越えていくことを説く。たとえばそれは、「人は自己の内なる川と海原とを探検し、自らの高緯度地域を探検せよ(explore of your own streams and oceans; explore your own higher latitudes)」といった彼の表現の中にあらわれている。ソローがそのような自己の探求を鼓舞するのはなぜだろうか。そこには当時の社会からつまはじきにされた者たちへのまなざしがあるのかもしれない。発表者は、テクストに鳴り響く太鼓の音に耳をそばだてる。ビジネスに奔走する「仲間たちとは足並みが揃わない男(a man does not keep pace with his companions)」がいるとすれば、彼は周囲の者とは別の太鼓に自らの歩みを合わせているのである。そのちぐはぐなアメリカの行進を想像しながら、ソローは我々読者に対し、“Let him step to the music which he hears”と提案する。そこには「資本主義から外れたリズムを持つ者たちへの視点が見受けられる」との発表者の指摘が印象に残った。

  後半部分を担当した板垣は、ソローが“Nineteenth Century”という時代区分に添えた様々な形容詞“restless, nervous, bustling, trivial”に注目した。ただ流されるまま、そのような時代「に生きる(live in)」ことを、ソローはよしとしない。Waldenというテクストにおいて、動詞の“live”には他動詞的な目的語が(書かないままに)存在しているのではないか、そう発表者は考える。つまり、どのような生を生きるか、である。それはこのテクストを貫くソローの態度なのかもしれない。発表者はWalden第二章における“I wished to live deliberately, to front only the essential facts of life”という一節を引用し、この“deliberately”という語を「入念に」と訳してみせた。この副詞もまた、ではいかなる生を生きるか?という問いを我々読者に喚起させるだろう。

 Waldenを散策する中で、我々は鳥のさえずりや氷の割れる音など、さまざまな森の音を聴取してきたが、ソローが最後に届けるのは、林檎の木のテーブルから聞こえてくる虫の音であった。その最後の音が内部からのものである、という発表者の指摘は、このテクストが読み手の五感を研ぎ澄ますものであることを気付かせてくれた。

 我々Waldenに別れを告げ次回からフォークナーのLight in Augustに分け入っていく。 

(報告者:田浦紘一朗)

第75回読書会 2022年1月23日(日)午後2時半~午後5時 @Zoomにて

■レポーター:田浦、髙瀬

参加者:小宮山、髙瀬、板垣、田浦、松丸、菅原

 今回の読書会ではWaldenの “Spring”(p.201-214)の章を読み、前半を髙瀬、後半を田浦が担当した。ソローがウォールデン湖畔で生活をした二年余、森での生活は、彼に人間と自然との関わり合いについて考えさせるきっかけを提供したが、季節の移ろいという時間感覚もまた、彼の森での生活の関心事となる。寒い季節と暖かい季節の境界線は、文字表現によってそれらが瞬時に分節化されるのとはうらはらに、迎える新たな季節は前の季節の中に、わずかな兆候を宿しながら徐々に様変わりしていく。そして、ソローはこの章で、冬の真っただ中にかすかな春の兆候を見出して、「春の到来に出会う機会」(“opportunity to see the spring come in.” (203)を持つことを、森での生活の魅力のうちの一つだと述べる。

 その兆候の例のひとつとして、ソローはウォールデンの解氷を挙げている。湖の氷の、“break up”、“melt”、“open”という解氷への過程を、彼は氷の厚さや氷の中にある気泡の生成、太陽光の湖への照射の原理といった、科学の論理を用いて述べている。目の前で起こるものを起こったものとして認知するだけでなく、そのあり様を自然の理屈で語っている点に、彼が自然に没入するだけでなく、それと一体感を求め理解しようとする、積極的な観察者であることが垣間見られ面白く感じた。また、ディスカッションでは音に関する表現の多さについても指摘がなされた。寒さや雪などに加え、氷の割れるときの音響も、知覚をもとにした、数か月単位での時間の刻みを表しているように思え、興味深かった。

 ソローが過ごしたウォールデンでの生活も、冬から春へと移行するテクストに歩調をあわせ、1847年9月6日をもって終わることとなった。(報告者:菅原大一太)

第74回読書会 2021年12月27日(月)午後2時半~午後5時 

■レポーター:菅原、小宮山 

参加者:髙瀬、板垣、田浦、松丸

 今回は“Winter Animals”と“The Pond in Winter”を読んだ。私たちの時候と合わせたように、ウォールデンにも冬がつづいている。小さな動物たちへの観察眼、動物たちの出す音、ソローの氷への愛着などは「冬」という季節の停滞感や辛さを感じさせない。むしろソローの端正な書きぶりは、「冬とはむしろ五感が研ぎ澄まされる季節なのではないか」という私たちの実感に結びついた形でまとめられた。発表者の言葉を用いると、ウォールデンの森は雪に閉ざされたわけではなくむしろ「自由でオープン」な空間となったという発言があった。ソローの湖への「思い入れ」や「偏愛」が湖の擬人化や測量の丹念な描写に表れていることも議論された。

 今回読んだところは動物と湖の現実的な描写と説明がほとんどだったが、湖の水や氷を一種の喩えとして人間の心根を論じるような箇所が少々あった。たとえば“Why is it that a bucket of water soon becomes putrid, but frozen remains sweet forever? It is commonly said that this is the difference between the affection and the intellect.”が挙げられた。ソローは“the affection”をどう捉えているのか? という発表者からの話題提起があり、盛り上がった。(報告者:板垣真任)

Zoomと対面@下河辺先生御自宅のハイブリッド開催。

読書会後は恒例のクリスマス+忘年会で1年の終わりに有意義な時間を過ごしました。

第73回読書会 2021年11月14日(日)午後3時~午後5時 @Zoomにて

■レポーター:松丸、板垣 

参加者:菅原、小宮山、板垣、田浦、松丸、高瀬

“Former Inhabitants; and Winter Visitors”(pp.172-78)を前半松丸さん、後半板垣くんが担当した。前半はソローが暮らす森に以前暮らしていた「先住者」に思いを馳せるソローの様子がうかがえる。先住者たちは元奴隷が多く、彼らの固有名詞が数多く登場する。ソローは先住者たちの生活の痕跡を、記録と記憶、そして地面の窪みなど森に残る生活の跡から辿って描写している。

 板垣くんが担当した後半では、雪の深さが語られている。冬の訪問者として、農夫や詩人、哲学者、そしてエマソンの名が挙げられており、ソローが彼らと語り明かしたことが描かれている。さらに、ソローは「家の主人は訪問客を待つために夕暮れ時は庭にいるべき」というヒンズー教の教えを引き、「歓待の義務」を遂行していたことを述べている。

ソローは森に一人で暮らしていたのだが、決して孤独な隠遁者ではなく、ホスピタリティにあふれ、友人や知人がソローの元を訪ねてくることを待ち、そしてそれを楽しんでいる。森での暮らしに対するそのようなソローの温かな視線は、過去にこの場所に暮らしていた先住者たちにも向けられている。  (報告者:高瀬祐子)

第72回読書会 2021年10月10日(日)午後2時00分~午後4時00分 @Zoomにて

■レポーター:田浦、髙瀬

参加者:小宮山、髙瀬、板垣、田浦、松丸、菅原

 今回は、Waldenの “House-Warming”(p.161-172)の章を、田浦、髙瀬が担当した。本章では、9月から12月の間のソローの生活が描かれている。季節が秋から冬に移行していくなかで、ソローはこの時期に固有の自然の変化に一体感を求めつつ、その対比として同時代の社会の、自然への距離感をほのかに述べて行く。ソローは、冬場に凍結するウォールデン湖の氷をしげしげと観察して、そこに見られる気泡の性質を詳細に述べる。そうすることで、彼は自然との直接的な接触を読者へ実演してみせるし、また、寒気を逃れて自分の小屋にやってきたスズメバチの大軍を煙たがりもせず、むしろ、自分の家をスズメバチが “a desirable shelter”(162)とみなしていることに「褒められているようにさえ感じる」(“I even felt complimented”(162))と述べ、自然への没入と好意を示す。

 ソローが照射する、こうした審美的なまなざしの影として、たとえば、ソローにとっては見ていて心地よいクランベリーも、森から離れれば、消費者によってジャムとして楽しまれる自然へと変貌してしまっている、という意見も今回の読書会で述べられた。寒ければ火をおこし、火をつけたければ薪が必要というような原初的な必然性は、あからさまな形で、ぬくもりや豊かさといった意味をもたらすし、いわば象徴性を持つともいえるであろう。森から離れた場所では、暖炉はストーブと化し、火が見えなくなるので、象徴性が希薄になった。また、ソローにとっては金塊よりも、火を使うのに必要だからという理由で薪の方が普遍的な価値があるという。本章で述べられる、“remoteness from its symbol”(165)という表現は、“parlor”(客間)という「もてなし」の場の文化的劣化について述べた文脈で表されたものだが、象徴性がずっと遠いところにあるという点は、火の存在を認知せずに暖を取っていることと通底しているように読めるのかもしれない。ソローがウォールデンで過ごした冬は、芯から温まるものだったのであろう。(報告者:菅原大一太)

第71回読書会 2021年8月23日(月)午前XX時~午後YY時 夏合宿@ZOOM

■レポーター:菅原、小宮山

参加者:髙瀬、板垣、田浦、松丸、高橋

瞑想する隠者と釣りに興じたい詩人の対話で始まる“Brute Neighbors”を読んだ。本章でソローは、何故目に見えるものだけが世界を作り出しているのだろうかと考えている。目に見えぬ世界との間を埋めるものとして、なぜ特定の動物のみを自分の隣人と考えてしまうのか。前半部では、自分の小屋の周りにいる様々な小動物—家の中に出没するハツカネズミや、コマドリやヤマシギといった野鳥たちの姿を観察していく。発表者はソローがエリマキライチョウの雛に無垢さと相反するような知性を見出していることに注目していた。

後半部では、ソローはアリの戦いとアビを観察している。発表者はソローが使用した戦争に関連する単語をリストアップし、特に「内輪同士の、内輪揉めの」を意味するinternecineを取りあげて、二種類のアリによる戦闘に人間の戦争—独立戦争が重ねられていることに着目した。アリの戦いに興奮したソローは、この戦いを「自分が目撃した唯一の戦闘であり、戦闘のさなかに足を踏み入れた唯一の戦場であった」と顧み、その人間同士の殺戮のような凄まじさに「ひどく感情を刺激され、苦しめられて、その気分を拭えぬまま」残りの一日を過ごしている。ソローが幻視したのは独立戦争であったが、南北戦争の予兆として読み替えることができるだろうと発表者は指摘した。内的差異の中での戦いはより凄惨になるのだという指摘により、内輪同士の戦いをめぐる議論はさらに深まった。(報告者:松丸綾乃)

第70回読書会 2021年6月12日(土)午後3時00分~午後5時00分 @ZOOMにて

■レポーター 板垣、松丸

参加者:板垣、大武、小宮山、菅原、田浦、高瀬、松丸

今回はWaldenの“Baker Farm”および”Higher Laws”を読み、前半を板垣が、後半を松丸が担当した。

 “Baker Farm“は、アイルランド出身のジョン・フィールドという農夫の登場により、ソローが考える生活の“mode”が浮き彫りになる章だ。雨宿りのために訪れたジョンの家で、ソローはジョンと仕事や労働についての議論を交わす。ジョンはソローに仕事の大変さを語り、ソローは彼に、お茶やコーヒー、バターやミルクいった贅沢品、およびそれを手に入れるための労働の不必要さを説く。ソローの目には、そういった商品のためにあくせく働くジョン夫妻が、“capital” や“arithmetic” のことを考えて生活しているように映るのだ。

 アメリカにいながらにして豪奢品を追い求めてしまうような生活様式を否定する際、ソローはそのような生活様式が「奴隷制や戦争(slavery and war)」の維持へと繋がっていることを示唆する。発表者は“slavery”と”war”という語の南北戦争以前における結びつきに注目した。その”war”という語の指示対象や、北部目線ともとれるソローのことば遣いについて、さまざまな意見が交わされた。

  “Higher Laws”で、ソローは肉食の欲望について語り、それは彼の人間論へと繋がっていく。魚釣りから帰る途中、ソローはウォールデンの森でウッドチャックと遭遇し、それを生のまま貪り食いたいという欲求に駆られる。空腹からではなく、その野生的な部分に強くひかれたからだ。人間の内部には一匹の動物がおり、それを完全に追い出すことはできない、とソローは考える。しかしながら、彼は同時に、人類が「穏やかな進歩(gradual improvement)」の中で動物食をやめることは運命であるとも述べている。

 肉を食べること、魚を食べることに関するソローの議論は、どこか一貫性を欠いているようにも感じられる。発表者はこの章におけるソローの思考のゆらぎを指摘した。そこには「より高い精神的な生活へと向かいたい本能と、原始的で野蛮な生活への本能を併せ持つ中で、より純粋なものになりたいと願うソロー」がいるのだ。   (報告者:田浦紘一朗)

第69回読書会 2021年5月1日(土) 午後3時00分~午後5時00分 @ZOOMにて

■レポーター:髙瀬、田浦

参加者:菅原、高瀬、大武、田浦、松丸、板垣、小宮山

今回はWaldenの“The Ponds”を読んだ。本章ではこの地方にあるいくつかの湖も併せて紹介されている。前半部では、ウォールデン湖の特徴や魚などの生態系、湖の名づけの由来などが紹介されている。エマソンの『自然』に書かれた有名な「透明な眼球」を想起させる“earth’s eye”という表現と湖の描写に注目が集まった。ソローによると湖は「表情に富んだ顔立ち」をしており、「地球の眼」であると擬人化がなされている。本章でも至る所に “measure”という動詞が使用されており、発表者からは、「測量士ソローは詳細な記録や数字にこだわっており、測って調査して記録するという一連の動作がテクスト中にも多く見られる」と報告された。

後半部では、ウォールデン湖と繋がるいくつかの池に対し「資源」とその「市場価値」との関係で自然を見つめるソローの視線からテクストを読んだ。発表者の「市場価値(market price)があるかないかという二項対立で自然を眺め、それを文学化する」というソローの手法は、「感性豊かなネイチャー・ライティングというより、きわめて西洋的なネイチャー・ブランディング(nature branding)としても受け取れる」というコメントはとても興味深かった。また湖面の美しさをダイアモンドと喩える箇所では、資源、それを手にしたいという人間の欲望、そしてフィッツ・ジェラルドの短編のタイトルに至るまで議論が発展した。

(報告者:小宮山真美子) 

※終了後、新年度初ということでそれぞれの近況を報告し合った

第68回読書会 2021年3月14日(日) 午後3時00分~午後5時00分 @ZOOMにて

■レポーター:菅原、小宮山

参加者:菅原、小宮山、高瀬、大武、田浦、松丸、板垣

今回はWalden の “The Bean Field” と “The Village” を読んだ。ソローにとって豆畑や森の大地は農作物を生産するだけの空間ではなく、いにしえの時間や昔そこに住んでいた存在との結びつきを感じる場である。ソローは「土地」というより「土」を意識しているという発表者の発言が耳に残った。発表者が挙げる単語も土いじりをするソローの指先が思い浮かぶような言葉が多かった。テクストには肥料に関する言葉なども多く書かれている。ディスカッションでは、ソローは自分の食用として豆を作っているわけではないという点に注目が集まった。ソロー自身は畑仕事を”my curious labor”と呼んだり、その収支を書いている。

「村」は「豆畑」と比べ短い章だが内容に富んでいる。発表者は「噂について」「暗い森の航路(夜の森に迷うことが海洋用語を通じて書かれている)」「苦しめられることと社会について」と3つに話題を分けた。最後の話題ではソローが逮捕され投獄されるエピソードが語られる。ディスカッションでは、税金の支払い拒否の向こうに見えるソローの奴隷制への態度、村のうわさ話が単なる音として書かれることや、うわさが食べ物のように書かれることが取り上げられた。「ソローはやっぱりたまに村に出ていたということがこの章でわかった」「ソローは靴直しは人に任せていたんだ」といったやりとりが耳に残った。ソローは修理を頼んでいた靴を村へ取りに行く途中に逮捕されたそうである。  (報告者:板垣真任) 

※終了後、年度末ということで、一時間ほど、互いのこの一年や近況を報告し合った。

第67回読書会 2021年1月24日(日) 午後2時30分~午後4時30分 @ZOOMにて

■レポーター:松丸、板垣

参加者:菅原、小宮山、大武、田浦、板垣、松丸、高瀬

今回はWalden の “Solitude” と “Visitors” を読んだ。“Solitude” は文字通り、ソローが孤独について考察している章である。ここでもソロー独自の孤独感が語られており、自然の中に1人で住むことに寂しさや孤独を感じたことはなく、むしろ人々の中に入って交わっているときの方が孤独を感じるという。ここでは、世間がよく言う「孤独」とソローの考える孤独の違いに多くの意見が集まった。ソローが人と交流する際の距離感覚には、コロナ禍で人との付き合い方が大きく変化したこの1年にも通じるものがあった。続く“Visitors” では、ソローは人付き合いを愛しているといい、もてなすことへの自信を語る。後半では、ソローのもとを訪れるさまざまな人について語られる。ソローは自分をインディアン側へ置き、森に自分を訪ねてくるゲストを旧世界のイギリス人側に置いて語っており、ソロー自身も数ヶ月前から森に住み始めたことを考えると、そのディスコースは興味深い。  (報告者:高瀬祐子)

第66回読書会 2020年12月27日(日) 午後3時00分~午後5時00分 @ZOOMにて

参加者:小宮山、髙瀬、大武、菅原、板垣、田浦、松丸

■担当:田浦、髙瀬

 今回は、Waldenの “Reading”(p.71-78)と “Sounds”(p.78-90)の章を、それぞれ田浦、髙瀬が担当した。

“Reading”の章は、ソローの読書論が展開される章であった。彼は森での生活を送り、DIYや畑の仕事に従事しながらも、本を読む行為を欠かさない。しかし、あるとき自分のいる場所がどこなのかを自問し、片手間で “shallow books”を読んでいることを恥じる。このとき彼は、森を意義深い一冊の本ととらえ、ひとつの読む対象と見定めるのだ。ここを発端として、ソローによる読む対象の評価付けが行われることになる。読まれる対象の持つ重要性の度合いが、彼によってホメロスやアイスキュロスなどによる古典作品と、それ以降に編まれる作品との差異に収斂され、「アスリートが絶え忍ぶような鍛錬」を必要とする古典の方を読んだ方がよいと説く。知性が覆う共同体とはかけ離れた同時代の文明を、ソローは読む行為によって解きほぐすことを夢想し、また森に暮らすことで、自らそれを実演したのであろう。

 “Sounds”の章では、森の中の生態系や大気の変動といった自然の要件から、ソローは様々な音を聞く。音が意味へと変換される森の音は、資本主義を象徴する、「地球の住人として今やふさわしいといってもよいかのような(“as if the earth had got a race now worth to inhabit it”)」鉄道が放つ音との差異へと変換されていく。今回の会では、「惑星の運行(“planetary motion”)」 が軌道に乗って行われることが、線路に乗って走る鉄道の運行と比較される点が面白いという指摘もなされた。人間の時間間隔が依拠しているはずの、「昼から夜へ / 夜から昼へ」といった、自然が本来持つ時間の刻みを、人為的な鉄道ダイヤが取って代わり、時間厳守の思考や、口調や思考そのものの速度の変化は「鉄道様式」と表現されていると、ソローは述べている。これはむしろ文明的な進化ともいえそうだが、商売道具として欲望を運ぶ鉄道が賑やかに過ぎ去り、その後でソローが感じる一人っきりの感覚(“I am more alone than ever.”)は、自然の時間や生物学的条件からは離れられない我々人間種にとって、大変示唆的なように思えた。             報告者(菅原大一太)

*2020年(令和2年)最後の読書会でした。Covid-19は依然として収まらず、Zoomを使用して開催されました。年末感が大変薄いように感じられましたが、ウィルスを前にしてはなす術もありません。混乱のさなかではありますが、そんななかでも読書会にはコンスタントに参加していければと思います。

第65回読書会 2020年11月7日(土) 午後10時00分~午後12時15分 @ZOOMにて

参加者:髙瀬、大武、板垣、田浦、松丸

■レポーター:小宮山、菅原

Walden, “Where I Lived, and What I Lived for”

前回「経済」を読み終えたので、今回は「住んだ場所と住んだ目的」を読んだ。

「家とは椅子(sedes)に他ならないのではないか」と語るソローは、住むという行為は「ただ腰を落ち着けること」であるという。ソローはliveの代わりにseatやsquatといった語を「住む」に対応する語として用いており、定住するのではなくすぐに立って動けるような住み方を好んでいる。

前半を担当した小宮山氏は、本章にairyという語が多用されていることを指摘した。ソローの住んだ家は冬向けの作りではなく、小屋の中にあっても新鮮な空気が満ちている空間である。家は内と外を分けるものであると考えられてきたが、ソローは風通りの良い小屋に近い「家」について語ることで、この二項対立を取り払おうとしているのではないかという指摘がフロアから上がった。

後半を担当した菅原氏はソローが「我々は見えている表面の向こうを見抜く(penetrate)ことができていない」と語っている部分を取り上げて、ソローは目に見える物には「向こう側」があり、そこには神の世界があるのだと考えていることを指摘した。本章の最後の段落において、ソローは比喩的に占い棒と地面から立ち昇る蒸気によって表面の奥にある水脈、つまりは表面からは見えない崇高なものを見つけ出そうとしている。ソローもメルヴィルも見える物事の向こうに何かがあると考えているが、神に対する猜疑心があるメルヴィルとソローとでは違いがあるようだという点について議論が盛り上がった。

既存のグローバルな資本主義的概念が揺らぐコロナ禍において、人里離れた場所に居を移して表面から隠れた真実性を切望し見出そうとするソローを読むことは大変刺激的であった。                               (報告者:松丸彩乃)

第64回読書会 2020年8月30日(日) 午後10時00分~午前11時15分 @ZOOM夏合宿

テキスト:Henry David Thoreau, Walden

■発表者:板垣、松丸

参加者:板垣、小宮山、菅原、田浦、高瀬、高橋、松丸

今回は“Economy”のpp. 48〜58を精読した。

前半部分では、家具についてソロー独自の思想が述べられる。ソローは必要な家具をほとんど自作で済ませてしまう。その行動の背景には、住居を移す際にわざわざ家具を運搬するのは馬鹿げている、というソローの考えがあるようだ。引っ越しをするのは「家具、つまりはぬけがらを捨てていく」ためであり、古い家具は「マクラス・インディアンたち(Mucclasse Indians)」の風習よろしく燃やしてしまえばいい。ソローが紹介したその先住民の風習を、発表者は「インディアンのお焚き上げ」と表現してみせた。

発表者はソローのプライバシーの感覚に着目した。太陽と月以外「覗き込む者(gazers)」がいない部屋に、カーテンなど必要ないとソローは考える。あえてカーテンなしで生活するというエピソードに、「プライベートという近代的な感覚」に意識的に反応する、あるいはその芽生えを予感しているソローを読み取ることができるのではないか。このような問いかけに、参加者からは、そこには「太陽や月に覗き込んでもらいたい」という彼の「寂しさ」のようなものも感じられる、との意見も寄せられた。『ウォールデン』を読むことは、自然の中だけではなく、部屋の中で過ごすソローを想像することにもつながるようだ。

後半部において、ソローは「慈善(charity)」について否定的な意見を述べていく。ソローは慈善的な行いをほとんどしたことがない。以前、貧しい人の世話を焼こうとしたところ、彼らが進んで貧乏のままでいたいと申し出たからである。だからといって、ソローは慈善自体を嫌っているわけではないようだ。慈善活動を熱心に行う人々の大半は、貧困に喘ぐ仲間への同情ではなく、自分自身の個人的な悩みから、そのような「一時的な行動(transitory act)」に走っている。ソローはその偽善性に反撥しているのである。慈善に対するソローの拒否感を要約するものとして、「貧しき者たちの監督者(overseer)になるのではなく、世界の名士の一人になろうと努めようではないか」という文章が引き合いに出された。

発表者は、慈善についてのソローの考えが、やはり結果として貧しい人々を「突き放し」ていると述べる。ソローは各人が「シンプルに生きる」べきであると考え、ウォールデンでの質素な生活を選択しているが、「貧しいライフスタイル」を選択することができるソローと、貧しい生活を強いられている人々の経済状況は大きく異なるのである。発表者の指摘は、『森の生活』という生活様式を読み、ときにそこに憧れる我々の自意識にも跳ね返ってくるだろう。(報告者:田浦紘一朗)

第63回読書会 2020年6月13日(土) 午後13時30分~午後16時00分 @ZOOMにより

テキスト: Henry David Thoreau, Walden

参加者:菅原、髙瀬、大武、板垣、田浦、松丸、小宮山

■発表者:田浦、大武

Waldenの「経済」の章は11個のセクションに分かれる。今回は7つ目と8つ目のセクションを読んだ。7つ目のセクションは「建てる」という行為についての思索を軸にして、大学制度などに話題が及ぶ。また、ソローは共同体を「分業システム」として捉えたり、鉄道や海底ケーブルなど同時代のテクノロジーを語りに織り込んでいる。ソローは“planet”に鉄道が張り巡らされることを「株式と鋤による活動」と言い表している。発表者はこのソローの言い換え(“stock and trade”→“stock and spade”)に着目し、新たなインフラが大地を平(なら)すという想像の中に、労働者の存在を忍び込ませていると述べた。また、発表者はeconomyのecoが「家」を指すということを踏まえながら、「家」に関する事柄からエコノミー全体へと話題が波及していくソローの書き方について触れた。ディスカッションでは、ソローがウォールデン湖で一生を過ごしたわけではないことや、大学や学問を語るにあたってのソローのジェンダー意識が話題にのぼった。前者について、「一度したことをいったんやめてみる、そしてふりかえり、何かに書き残してみる、という行程が本の書かれ方に作用している」「ちょんぎった時間のかたまりとして森での生活があった」というコメントが耳に残った。

8つめのセクションは食料に関する収支やパンの焼き方についてが事細かに語られている。ソローは疑問文や仮定法を駆使しながら当時の価値観に異議を申し立てているようである。発表者が挙げたのは労働力としての動物と人間の関係を述べた文や、ソローが土地に居座ったことにより、そこの「価値をむしろ上げることができた」と述べる文である。発表者はそうした箇所をまわりくどいと評価しつつ、それはソロー自身が自分を“crooked”な気質であると言っていることに結びつくのではないかと述べた。そうだとすると、crookedとは単に「ゆがんだ、ねじまがった性格」という以上に「19世紀的に見てアメリカ的主体ではない、という意味でゆがんでいる」という含意があるかもしれない、といった指摘があった。他にはリスと人間を並置する語り方などに注目が集まった。私個人は発表者が森の生活のことを「実験」と繰り返し言ったことが耳に残った。ソロー自身がそう書いており、これは前半に議論された時間に関する話題と通底する。

今回までの読書会で浮かび上がってきた読みのポイントは、このテクストが資本主義の初期段階にあたる時期に書かれたという点である。モノと金の関係、モノや金はどう増えるべきか、そしてモノ・金・人の関わり方。そうしたことに関して、私たちは私たちなりにソロー独自の視点を面白がったり不思議がったり納得している。いまのコロナ下で私たちの資本主義通念が変更を迫られていることもまた、私たちの読み心地に作用している。(報告者:板垣真任)

*ZOOMによる読書会にも慣れてきている。今年の夏合宿について相談し、いつもと同じ時期にZOOMによって行うことにする。準備委員は高瀬さんと大武さん。

第62回読書会 2020年5月19日(土) 午後13時30分~午後16時00分 @ZOOMにより

テキスト: Henry David Thoreau, Walden

参加者:菅原、髙瀬、大武、板垣、田浦、松丸、小宮山

■発表者:板垣、髙瀬

前回に続き”Economy”の「理論編」の最終部分(板垣)と、ソローが実際にウォールデン湖のほとりに自分の小屋を建てる「実践編」の冒頭部(高瀬)を読んだ。住居について、ソローは「扱いが難しい財産(unwieldy property)」と言い、室内の装飾や立派な家具を揃えるライフスタイルに反対している。板垣氏は“earth”や“ground”など地面を指す箇所をセンテンスに取り上げながら、ソローは地に足を付けた暮らし、むしろ動物のように巣穴を掘っていくような暮らしをよしとしていたことを例証した。また原始人や植民者の暮らしを引き合いに出しながら、「文明人の方が堕落している」という指摘もし、ソローは「建てる」「作りあげる」という垂直方向に延びるアメリカの欲望やアメリカ精神に対し、批判的であったのではという問いかけをした。

いよいよ自分の小屋を建て始めたのは、1845年3月末からで、「斧を借りてウォールデン湖近くの森へ入った」という一文から始まっている。その後、5月のはじめに友人たちの手を借りて棟上げをし、7月4日から住み始めた、という記述が続く。この「斧を借りる」という行為から始まった住居づくりを、21世紀のコロナ禍で読むとさまざまな反応が出た。まず、道具やモノを買うという消費行動ではなく、現代のtime-shareあるいはsharing economyにも通じる「必要な時だけ借りる」という行為であること、しかもメンテナンスを施して返すこと、そして現代の資本主義の脈絡に乗らず「自分が働いていたら向こうから必要なものがやってきた」という受け身の姿勢でソローが暮らしていることを、それぞれが読み取った。何が必要で、何が不要かを知ることとなったコロナ禍の日本/世界において、今ソローを読むことの面白さをzoomというデジタル空間を媒介として、全員で共有することができた。(報告者:小宮山真美子)

第61回 2020年1月28日(火)午前10時30分~午後12時00分

テキスト: Henry David Thoreau, Walden

参加者:大武、小宮山、高瀬、菅原、板垣、田浦、松丸

■発表者:小宮山、松丸

今回は『ウォールデン』の“Economy”の章のうち、「衣服」と「住居」について述べられる部分を読んだ。この2つのテーマに共通する、未開/進歩の2項対立が、社会の進化の過程で、原初的な観点から脱構築がなされているように読めて大変面白かった。「衣服」は現代社会の了解事項として、裸を避けるために必要であると同時に、社会階級の表象となるが、ソローにとっては最上の上皮であるとされ、身軽な服装が良いとされる。彼のことばを言い換えれば、衣服は人間の内と外を分け隔てるものであるので、身軽さとは、衣服の持つ社会性をはぎ取ること示していると読み込む考察がなされた。

また、「住居」については、人類は戸外で生きることから、屋内での生活に移行した。それは文明の発展の道筋であり、屋内という、新たな内部空間の構築とその質を高めていったにもかかわらず、文明人(“civilized men”)は自らの居住地を賃借りすることになり、ここで居住の営為に対し、金銭が介入してくる。「経済」的な理由から、自らの居場所を所有することができないことは、所有されるものとしての土地の概念に変容を強いている。現代の高層建築では、必ずしも水平方向の地面の広がりを優先はしないので、土地の所有という概念と家が切り離されることになる。土地と住居、そこに金銭が絡み合って、それぞれ意味づけが、文明の進化に逆説的に機能していることが読み取れ、大変興味深かった。(報告者:菅原大一太)

第60回読書会 2019年12月27日(金)午前10時半~12時半

テキスト:Henry D. Thoreau,  Walden

参加者:菅原、小宮山、高瀬、大武、板垣、田浦、松丸

■発表者:大武 菅原

『ウォールデン』の冒頭である「経済」は長大な章であり、いくつかのセクションに区切られている。今回は一つ目のセクションの最後から、三つ目のセクションまで読み進んだ。人間の生活における衣食住の重要性が、「熱(heat)」や「燃焼(combustion)」というソロー独自の関心を軸に語られる点に皆の関心が集まった。また、ソローの文章は具体的なことを言いたいのだろうが時に曖昧で観念的な内容に寄る傾向がある、具体的な物事だけではなく心の態度の問題をも書こうとしているのだろうと発表者は指摘していた。たとえば、彼の書く“trust”とはいかなるものか。動作であるとしたら主体や目的語は何か、という議論が盛り上がった。

三つ目のセクションでは、内容自体というよりソローの採用する言葉が「経済」という章のタイトルを示唆していくということが議論された。彼は森の中に生活する人々と自分との「差異」を強調しているという議論もあった。たとえばそのことはソローが町の人間よりも早く起きることを語る部分にあらわれる。自然という枠の中でソローは自分と他人を差異化し、さらにそのことはソロー独自のエコノミー概念と関連しているという発言が耳に残った。テクストにおける職業や金銭に関する単語の頻出をこの指摘と絡めて深く考えることができそうだ。(報告者:板垣真任)

*終了後、ピザをとりサラダとともにクリスマス会および研究室荷物運びだし

第59回読書会 2019年11月3日(日祝)午後1時~3時 @成蹊大学10号館中会議室

参加者:菅原、小宮山、髙瀬、大武、松丸、板垣、田浦

■発表者:板垣、田浦

テキスト:Henry David Thoreau,Waldenを読むことになった。

Waldenの第一回目今回はEconomyの冒頭を読む。前半を担当した板垣さんは、まず“economy”という語の意味についてOEDを引きながら確認した。通常「経済」と訳される“economy”だが、OEDによれば、「何かを管理する方法」“The way which something is managed”であるという。Thoreauは、森での生活で物資や食料、燃料などをどのように管理・調達していたのかという方法をまず読者に伝えようとしているのではないかと、板垣さんは分析していた。また、板垣さんはmachineとsincerelyという言葉に注目し、Thoreauはmachine化する人々に対しもっと丁寧に生きるべきだと主張していると述べた。machineという言葉については、当時と今とでは示すものが違うことなどにも話題に上った。

後半を担当した田浦さんは、今回の範囲において昔と今の対比が多くなされていることに注目した。「1つの世代は別の世代の事業を座礁船のように置き去りにしていく」という文中の表現について、座礁は自然災害であるけれどテクノロジーの挫折によって起こる事象であるということにも話が及んだ。また、読者に語りかける小説は多くあるが、読者の経済状況に対してまで言及するThoreauの姿勢にも注目していた。Thoreauの文からは、苦しい状況にあるかもしれない読者に対する気遣いが見えると田浦さんは述べていた。

まだ読み始めたばかりだが、現代に生きる我々の暮らしと照らし合わせながら読んでいきたい。(報告者:松丸彩乃)

*終了後 発表練習を行った。

第58回 2019年9月28日(土)午後10時30分~午後12時00分

テキスト: Henry James, “The Turn of the Screw”

参加者:小宮山、髙瀬、大武、菅原、板垣、田浦、松丸

■発表者:小宮山、松丸

今回は最終章である第24章を、前半が小宮山、後半が松丸に分かれて担当した。ガバネスの用意した手紙がなくなったことについて、彼女はマイルズを問い詰める。二人の対話が続く中、ガバネスにはマイルズの背後の窓の外に、クイントの姿が見える。彼女はマイルズにその姿を見せまいとするのだが、その時の描写で身体的な接触が多いことが指摘された。これはガバネスによる、マイルズへの暴力だという意見もあれば、語りのマイルズへの親密さから、ハネムーンのようだという考察も見られた。また、その語りについても、ガバネスの感情の起伏が激しくなる中でマイルズへ気遣いをしているので、ガバネスからのマイルズへの親密さも、怒りを含んだものになっていると読めるのではという意見も出た。最後の場面で、マイルズが死んでしまうと読みに立つと、ガバネスがマイルズを抱きしめるときにも、“proud”ということばが使われており、このような状況においてもなお、自尊心をもってしまうガバネスは、奇妙でおもしろいという意見も出た。(報告者:菅原 大一太)

第57回読書会 2019年8月31日(土)午後3時~5時@東急バケーションズ箱根強羅

参加者:菅原、小宮山、髙瀬、大武、松丸、板垣、田浦

テキスト:”The Turn of the Screw” 22、23章

■ 発表者:高瀬、菅原

22章では、女中など屋敷内部の人々の視線や、他者からの反応に意識を向けるガヴァネスの心理が描かれた。特にディスカッションの中心となったのは、関係性が変化したとガヴァネスが語るマイルズと二人きりの場面である。マイルズの心情をあれこれ想像するガヴァネスと、マイルズのしぐさや態度が今までにないものに変化している点に注目があつまった。

「手紙を盗んだのか」というマイルズへの核心を突く問いかけで終わる23章においても二人の関係の変化が表れていた。マイルズをbeautifulだと語るガヴァネスの言葉は、今まで二人の子供たちに向けられていたものとは違う意味をもつとの指摘があった。二つの章を通じてガヴァネスに注目が集まり、特に彼女の自意識過剰な「知覚過敏さ」が目立つという意見があった。物語の結末に向けて、皆でページを前に戻しながら以前の描写を確認しながら読み進めた。(報告者:大武佑)

*箱根強羅合宿のセッションの一つとして行った

第56回読書会 2019年6月29日(土)午前10時半~12時半@三田

テキスト: Henry James “The Turn of the Screw”

参加者:菅原、髙瀬、大武、板垣、田浦、松丸、小宮山

■発表者:板垣、大武

今回は第20章(板垣)と21章(大武)を読んだ。ガヴァネスとグロースさんは、湖のほとりでフローラを見つけるが、同時に幽霊となったジェルスの姿も目にする。その場に居る3人全員がジェルスを目撃したと思われたが、「見える人」(ガヴァネス)と「見えない人」(グロース?とフローラ)による構図ができあがり、複雑な視線の交錯により、3人(幽霊を入れると4人)の関係が揺れ動く。発表では、ガヴァネスが自分は正常なのだという主張のために、前の出来事と次の出来事を結び付ける”so”や”for,” “as”といった副詞や接続詞が使用されていると指摘された。またそれは同時に自分に自信のなさから確証が欲しいという欲望の現われでもあるという意見も出た。

21章はガヴァネスを拒絶したフローラが夜のうちに部屋を出て、夜明け前にグロースさんが相談にやってくるという場面である。物語の進行上では、ある種のsuspend(停止)の場面であり、登場人物の動きはないもののsuspense(不安・未確定状態)へと繋がる章である。発表ではガヴァネスの台詞に挟まれた”I tried to be more judicial”という表現から、「見える側が法を裁く立場にある」と彼女が信じているのではないかという指摘があった。またロンドンの雇い主に宛てた手紙をマイルズが盗んだことから、ガヴァネスは彼が退学させられた理由が盗みではないかと憶測を立てる。今回の2章では、ガヴァネスがどうにかして脈絡を繋げ、それを自分のため(自分が正常だと他人に認めてもらいたいという欲望)に使おうとする姿を読むことが出来た。 (報告者:小宮山真美子)

第55回読書会 2019年4月28日(日)午後2時半~4時半 @成蹊大学10号館中会議室

参加者:菅原、小宮山、髙瀬、大武、板垣、田浦、松丸

■発表者:小宮山、田浦

テキスト:The Turn of the Screw”

今回は18・19章を読んだ。

18章を主に担当した小宮山さんは、マイルズが放校処分になった決定的な証拠proofを探す女教師の意識に注目した。何も知らない人々の目(uninformed eye)にはマイルズのことを「小さな紳士」と考えるが、彼女はinitiated view(229)を持っているが故に証拠を追い求めている。知らない人々と知っている私という対比があることを指摘した上で、この小説が片方の側 (女教師側)からの視点の書き物であることを改めて意識せねばならない、と小宮山さんはまとめた。また、失踪したフローラを探しに出る際、女教師が帽子を被らずに屋敷を出たことにも注目していた。上流階級の女性と帽子について、田浦さんは帽子がない女教師たちは高貴さを示す記号を失った状態であると指摘した。

続いて19章を主に担当した田浦さんは、発見されたフローラが女教師に対して「マイルズはどこ?」と尋ねるシーンに注目した。杯の中に溜まってきていた水がついに溢れるという表現は、女教師の自制心が効かなくなったことを示しているようである。さらにそこに続く“I heard my self say…”「自分がそう言ったのを自分が聴いた」という奇妙な表現が不気味さを際立たせているとも指摘した。また、コメントの中で18・19章の女教師の声色に陽気さが見られるのも不気味であると指摘した。

皆のディスカッションの中では、19章の冒頭にある池の描写に注目する意見が出た。屋敷の敷地内にある水の溜まった場所を示す語がthe lake、the pond、the waterと表記に揺れが見られ、女教師が自分の出自に対して卑屈に考えているのではないかという意見が上がった。(報告者:松丸彩乃)

*終了後、高瀬さんの博士号取得、松丸さんの修士号取得と博士後期入学を祝ってCAFE247にて懇親会を行った。

第54回読書会 2019年3月22日(金)午後2時~4時30分

参加者:小宮山、髙瀬、大武、菅原、板垣、田浦、松丸

テキスト: Henry James, “The Turn of the Screw”

■発表者:松丸、髙瀬

今回は第15章と第16章が松丸、そして第17章を高瀬が担当した。15章では、教会堂から逃げ出し、マイルズを置いたまま一人で屋敷に戻ってきたガヴァネスが、幽霊と遭遇する。そして、ガヴァネスは自分こそがこの屋敷への侵入者であるという感覚に襲われる。元をたどれば、彼女は主に雇われ、その職責を果たしてきただけであった。しかし、マイルズは置き去りにし、むしろ現況では幽霊こそが外部からの越境者なのに、自分の方が侵入者であると思わされてしまうところに、彼女の自意識の奔放さが読めて面白かった。それは第16章において、雇い主である子供たちの叔父に屋敷へ来てもらい、マイルズの放校の理由を尋ねたいとグロースに提案するときに、それは幽霊である前任者を雇った主の落ち度だと非難し、自分の責任を遠ざけている点にも読み込めるのではという議論もなされた。

第17章では、その日の晩にガヴァネスとマイルズが彼の部屋で対面する。屋敷を出たがるマイルズからガヴァネスは、“the chance to possessing him”を得たがるのだが、ガヴァネスが彼を所有したがるのは、マイルズの放校の理由が依然としてわからず、事実がリリースされないなかで、二人の情報格差の解消をガヴァネスが求めているからだという見解も出た。(報告者 菅原大一太)

*終了後、今年から非常勤の職に就く3名のための非常勤ワークショップを行った

第53回読書会 2019年1月26日(土)午後3時~5時 @三田 @慶應大学

参加者:菅原、小宮山、板垣、田浦、高瀬、松丸

テキスト Henry James, “The Turn of the Screw”

■発表者:菅原、板垣

13章は、プロットがまったく動かず、「私」(ガバネス)の回想録である。クイントとジェセル先生はその後姿を見せなかったが、ガバネスの苦しい状況は変わらず、特に子供たちが自分よりも事態を把握していることをおぞましく感じていた。この章では、ガバネスが感じている子供たちの脅威と、実は子供たちはガバネスの心の動きを見抜き、おじさんの話を持ち出したりしているのでは? というコメント・レスポンスが多かった。

14章は一転して、私とマイルズの会話を中心とした章である。この2人の会話は一見するとポルノ小説のような性的な会話とも取ることができ、マイルズと私の関係に新しい変化が起こり、危うさが潜んでいることがうかがえる。2人の会話についてのレスポンスやコメントを中心に議論は盛り上がり、「これをガバネスに書かせているジェイムズ」にまで展開した。(報告者:高瀬祐子)

第52回読書会 2018年12月22日(土)午後3時~5時

テキスト:Henry James, “The Turn of the Screw”.

参加者:板垣、小宮山、菅原、田浦、高瀬、松丸

■発表者:小宮山、高瀬、田浦

今回は第10章から12章を読み終えた。第10章、ガバネスはフローラが夜中にベッドを抜け出していたことを知る。窓の外を見つめていたフローラに対し、ガバネスは誰かを見たのかと問い詰めるが、結局真相はうやむやにされる。別の晩、フローラはまた窓の外を見つめていた。屋敷の外にいたのはマイルズであり、ガバネスの目にはマイルズが塔の上にいる人物を見上げているように見えた。本章には登場人物の視線に関する描写が頻出する。屋敷の外のマイルズを見つめるフローラ、塔の上の人物を見上げるマイルズ、そのマイルズを見つめるガバネスといった、本作の「視線の構造」についての議論が交わされた。

第11章、ガバネスは夜中に抜け出したマイルズを屋敷に連れ戻し、翌朝、その顛末をグロースに打ち明ける。マイルズは妹と計画し、ガバネスが外を見るように仕向けたのだった。前章に続き、11章においても視線は重要な意味を持つ。他人が何を見ているのかを知りたいと思う欲望を利用するマイルズとフローラの不気味な「ずる賢さ(cleverness)」について注目が集まった。

第12章、屋外で遊ぶマイルズとフローラの姿を目で追いながら、ガバネスはグロースと屋敷の問題について話し合う。子供たちがクイントとジェシー(前任の家庭教師)のいる死後の世界に入り込もうとしていると述べるガバネスに対し、グロースはその件を屋敷の主人に報告すべきだと主張する。しかし、主人に屋敷を任せられていたガバネスは、どうにかして本件を内密にしようとする。ガバネスの「虚栄心」はどこから生じているのか、そこには主人への性的欲望が隠されているのではないか、といった議論が交わされた。(報告者:田浦紘一朗)

*今回の読書会は下河辺先生のご自宅にて行い、終了後にはクリスマス会を行った。

第51回 2018年11月10日(土)午前10時半~12時

テキスト:Henry James “The Turn of the Screw”

参加者:菅原、小宮山、高瀬、大武、板垣、田浦、松丸、(輝)

■発表者:小宮山

今回は第9章を読んだ。この章の前半では子供たちの心理を推し量るガヴァネスの心理が語られ、後半ではクイントとの三度目の遭遇が語られる。前半について、ガヴァネスは子供が自分を「途方もなく、異常に」(“extravagantly and preternaturally”)好いてくれていると思っている。一方で彼女は幽霊と子供たちの関連性について何も確固たることをつかめずにいる。二人のうちマイルスは「とてつもなく激しい刺激の影響下」(“a tremendous incitement”)にあるのではないかと、ガヴァネスは考えている。こうした、テクストから散見される<甚だしさ>についての発表者の着眼がたいへん耳に残った。

後半について、ガヴァネスは「完全なる静寂」(“the dead silence”)の中でクイントと出会う。発表者はこの「静けさ」について語るガヴァネスの言葉を指摘した。ガヴァネスは仮定法過去完了やasを用いてクイントと対面したさいの印象や雰囲気を振り返るが、発表者によるとこの迂回的な語りが直接的に触知され得ない幽霊という対象を扱うこととリンクしている。発表外の時間では皆で子供たちの語られ方や、クイントとの対面の様子をもう少し詳しく検討した。(報告者:板垣真任)

*この日の午後は下河辺ゼミの卒論発表会が行われ、読書会メンバーは学部生10人の発表を聴いた。ゼミの卒業生も何人か参加し、近況や卒論執筆当時の思い出をフロアに向けて話す時間も設けられた。

第50回 2018年10月14日(日)午後1時半~午後4時

テキスト: Henry James,“The Turn of the Screw”

於:成蹊大学10号館第一中会議室

参加者:菅原、小宮山、高瀬、板垣、田浦、松丸、大武、(今田)

■レポーター:松丸、板垣

今回は第7章(松丸)と8章(板垣)を読んだ。7章において、自らの前任者であったミス・ジェスルらしき女を目撃したガヴァネスがそのことをグロースさんに伝える場面では、ミス・ジェスルとクイントとの関係について話す二人が使う言葉遣いに注目が集まった。階級を示す単語だけでなく、職業の違いに対する意識も強く表れており、グロースさんからジェスルに対して評価を下すinfamousという単語をどう日本語に直すか(不名誉な、身持ちの悪い、ふしだらな 等)という議論もあった。また、ガヴァネスが自分もまた「侵入者」として見られている意識があるという指摘や、7章の終わり部分のガヴァネスが示す激しい絶望の感情(despair)に読者が共感しきれないという意見もあった。

8章では、過去を振り返って語るガヴァネスの語り口から、彼女が知りたいと思っていることや語りたいことに注目が集まった。二人の子供とクイント、ジェスルの関係について、自分の欲する情報と合致する(suit)ことがガヴァネスには必要であり、詳しくは書かれていないものの、グロースさんから聞く四人の関係は、ガヴァネスが考えることを禁じていたある見解と合致していた。この作品では、情報収集が謎の解決には至らないという点にも言及があり、それが読者にとってのカタストロフィーにはつながらない。読み進めるほどに想像と真実の境界があいまいに深まっていく点が、ジェイムズの小説が「心理小説」と呼ばれる所以なのかとの意見が印象的であった。(報告者:大武佑)

※ 大武さんのパートナーの今田さんが参加されました。

第49回 2018年9月5日(水)午前16時半~午後18時10分 

テキスト: Henry James,“The Turn of the Screw”

於:フェザント山中湖

参加者:菅原、小宮山、大武、板垣、田浦、松丸、高瀬(高橋諒)

■発表者:大武、菅原

今回は夏合宿のセッションの1つとして、第5章(大武)と第6章(菅原)を読んだ。ガバネスとグロースさんは、ガバネスが見た「異常な男」について話をする。ガバネスがグロースさんに男の見た目や様子を詳しく話すと、グロースさんは、それはご主人の付き人だったピーター・クイントという男だと叫んだ。そして、クイントはすでに死んでいた。幽霊を見たことがわかったガバネスは教会に行くどころではなくなり、グロースさんから詳しくクイントの話を聞き始めた。幽霊のクイントはマイルズに会いたがっているのだとガバネスは考え、子供たちを守らなければと決意した。クイントはある冬の朝の明け方に死体で発見されたが、酒に酔って凍った道で滑ったのだろうと思われていた。

今回の章では、ガバネスが「異常な男」に関する情報をグロースさんに少しずつ開示する様子や、ガバネスの言葉をリピートするグロースさんに注目が集まった。語るガバネスとリピートするグロースさんという関係が「服の話」で逆転し、グロースさんがクイントについて語り出すポイントを確認する作業は面白かった。また、元々屋敷の中にいたクイントが外から侵入する幽霊となり、外から来たガバネスが内部の人間として振る舞っていることなどから「侵入」という言葉も挙げられた。(報告者:高瀬祐子)

*素敵なログハウスで、少し早い秋の訪れを感じながらのセッションとなりました。

第48回 2018年7月6日(土)午前10時半~午後0時半 

テキスト: Henry James, “The Turn of the Screw”

於 成蹊大学10号館2階第一中会議室

参加者:菅原、髙瀬、大武、板垣、田浦、松丸、小宮山 (輝)

■発表者:高瀬、田浦

今回は第3章(高瀬)と4章(田浦)を読んだ。語り手”I”であるガヴァネスが、過去を回想する形で物語は進められる。彼女はマイルズの帰還(退学処分)を受け入れるとともに、自分が美しい二人の兄妹の家庭教師を仰せつかった高揚感で、浮き足立った夏を過ごしていた。時を同じくして「ある男」と遭遇する。一度目は夜の散歩に出たときに向かいの塔の上に立つ男の視線と対峙し、二度目は庭からダイニングを覗き込む男の顔を部屋の中から発見する。急いで外に探し出るが男の姿はなく、代わりに窓の外にガヴァネスを見つけたグロースさんが、部屋の中で先の彼女と同じようにショックを受けた表情をしたのだった。

この正体不明の男の登場の仕方、ガヴァネスが男を認識してゆくプロセス、そしてそれを後に書き留めるときの心理などをガヴァネスの視点から追ってゆくと、そこには「自意識過剰な若い女」の姿が見えた。それは彼女の言葉遣いから読み取れる。男は最初”the person”と指し示され、彼女はその人物を憧れの雇い主と勘違いする。それが”an unknown man”だと気づいたとき、彼女はその顔を”it”として扱う。また彼女は「見られている」という意識から、その男を”my visitor”や”my own visitant”と形容し、見られている/求められている対象は自分だと思い込むが、窓から覗く男の視線が「ほかのもの」を見つめていると気づいたとき、衝撃を受ける。これらが記憶に基づいて書き起こされた文書という点から、田浦はガヴァネスが思い出すときの不安定さについて指摘し、一貫性を持った概要を作ることへの難しさを述べた。また高瀬は建物に使われている部品を画像で紹介し、屋敷および敷地内部の配置についてその描写のしづらさについても指摘した。(報告者:小宮山真美子)

*読書会後、午後2時~5時開催の、成蹊大学文学部主催スペシャル・レクチャーズ「英語教育レクチャーズ:いま、あらためて考える英語教育」に全員で参加した。講師の阿部公彦先生が引用したJane Eyreの箇所が、たまたまガバナスと当主の絡みだったので、皆で顔を見合わせる瞬間もあった。

第47回 2018年5月26日(土)午前10時半~午後0時半 

テキスト:Henry James, “The Turn of the Screw”

於 慶應大学三田ラウンジ

参加者:菅原、小宮山、髙瀬、板垣、田浦、松丸

■発表者:板垣、小宮山

今回は第1章と第2章を読んだ。1章からはgovernessによって書かれた手記の内容が書かれていて、語り手は、前章語り手の男 “I” からgovernessに変わっている。また、1章で書かれている手記は、前章に出てきたDouglasから男の語り手 “I” の手に渡り、語り手 “I” によって書き写されたものである。一言一句governessの手記の言葉と一致しているかは定かでないという点もJamesらしい設定であり、読みの際には気をつけなければならないと皆で確認しあった。

第1章では、語り手governess がBlyにある館に到着して幼いフローラと家政婦のグロース夫人に出会うが、その晩に彼女は奇妙な音を耳にする。担当した板垣は、特に “I” が用いる語りの時制に注目し、語り手が手記を書いている時の気分と当時の気分との違いを注意深く確認していった。当時の語り手は美しい館とフローラに気分が高揚したり、一方で駆け出しの自分に仕事が務まるか不安に苛まれたりと “a little see-saw” のように過ごしているが、手記を書いている時点の彼女は館に対して懐疑的な印象を抱いている。

第2章では、館の将来の主人となるマイルズが放校処分となったことが発覚する。前章でグロース夫人と仲良くなった governess だったが、彼女が前任の家庭教師について尋ねるとグロース夫人と奇妙な問答になる。また、マイルズは周りを「堕落させる(contaminate/ corrupt)」存在であるという表現について注目が集まり、これらの語は『オイディプス王』にも出てくる単語であるという先生からの指摘もあった。小宮山はグロース夫人とのやりとりを心理戦という言葉を用いて表現していた。マイルズとの対面を前に、すでに物語は心理戦の様相を見せ始めている。(報告者:松丸彩乃)

 第46回 2018年4月28日(土)午後1時半~4時 

於   成蹊大学10号館5階515

テキスト:Henry James, “The Turn of the Screw”

参加者:菅原、小宮山、高瀬、大武、板垣、田浦、松丸

■発表者:菅原、松丸

今回からHenry Jamesの“The Turn of the Screw”(1898)を読んでいく。初回なので序章の部分を前半と後半に分けて読んだ。枠物語といえるこの数ページは時間の流れと人物関係が整理しづらく、常に確認したり議論したりしながらディスカッションは進められた。また、Jamesの英語がそもそも複雑である。発表者はひっかかりが生じうるセンテンスをあえて取り上げ、みなで数種類の訳を読み上げ解釈を検討するという一幕もあった。

書かれていることは語り手の「私」が暖炉を囲んで話をした数日間を振り返っているという内容が主である。そのとき、「私」はダグラスという人物からガヴァネスの女性、マイルズ、フローラの話を聞いた。その後、「私」は死の間際にあるダグラスからその話が書かれた手記を託されたとのことであるが、本編はこの手記を「私」が「正確に書き写したものである」という。この「正確」さの程度、この経緯が説明されるタイミングの唐突さ、他人の手記を利用するというモチーフに見られるホーソンとの類似、などが指摘された。ダグラスに送られてきたガヴァネスのmanuscriptの存在がすべての始まりなのだから、“The Turn of the Screw”は幽霊の話という以前に過去の人間たちの話である、というコメントが耳に残っている。

その他、Jamesは口述筆記で作品を作っていたという伝記的情報や、ガヴァネスという存在の階級性、ダグラスの話を聞くオーディエンスの存在、インドという細部から覗ける歴史背景などなどが議論にあがった。今後も楽しみである。(報告者:板垣真任)

*読書会後、前回まで読んできた“Apt Pupil”(1982)の映画版『ゴールデン・ボーイ』(1998)をみなで鑑賞した。(8号館101教室)

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