大学院ゼミ読書会【第四期】

第104 回読書会(2025 年10 月11 日 午後3 時から5 時)@teams

レポーター 板垣(前半)、田浦(後半)
参加者 下河辺先生、菅原、小宮山、高瀬、田浦、板垣、大武

8 月の読書会に続く“The Ballad of the Sad Café”の2 回目を読んだ。物語は、office, stairs,
porch からなる酒場という狭い空間で語られる。アメリアの店が酒場に変化したしことを指
摘する発表者はまず、ポーチで何かを待つ(wait)主体である町の男たちの、何を待って
いるのか自分でも理解していない「ぞわぞわ感」に酒場が包まれていることに言及した。
酒場の階上から聞こえる物音は階下にいるものにとっては異物であり、読者は男たちの緊
張感を共有しながら読み進める中、階上から降りてきたせむし男は町の男たちと打ち解け
「てしまう」。せむし男の存在は酒場の雰囲気を変化させ、おずおずと酒場での飲酒を楽し
み始める町の人々の様子はピューリタンの人々のようであるというレスポンスがあった。
外部から現れたせむし男がその場を支配するだけでなく、アメリアを名前で呼ぶことやア
メリアの父親のものだったかぎ煙草入れを所有していること、親密さの中でそれまで匿名
だった男たちの名前が明示され、個別性が生まれたことなどが、せむし男の振るう怪しげ
なown という行為の背景として浮かび上がった。また、日本語では「法的な関係ではなく、
所有していない・されていない」という意味を想起させるlover という語を用いるマッカラ
ーズの人間観についても議論があった。
語り手は酒場開店からの4 年間―せむしのライモンに対するアメリアとその生活の変化、
アメリアの最初の結婚について―を「圧縮」して語る。穏やかに進む物語を前にして読書会
のメンバーはフォークナー的な暗い展開を警戒してしまうが、後半、発表者は描写の「軽
さ」を繰り返し指摘したことが印象的だった。軽妙に語られるのは、アメリアとライモン
の間の血縁関係の不明瞭さ、a man saving for a wedding ring と描写されるアメリアの最
初の夫のマーヴィン、そして、マーヴィンとの結婚式の最中、着ていないオーバーオール
のポケットを探すしぐさをするアメリアの姿だ。近親婚の可能性や、社会的性的役割への
ユーモラスな言及は軽妙で、ここでの軽さとは発表者によれば「意味なさげ」な様子であ
る。しかし、この意味なさげな軽さが、発表者二人の概要(語り直し)の違いにもつなが
り、さらにライモンという人物に対する評価が分かれる点にも通じているようで興味深か
った。参加者からは、まだこの物語に入り込めていない感覚があるという声があった。こ
の読書会が女性作家作品を題材にするのが実は初めてであること、しかも南部女性作家が
描くグロテスクな女性像をまだこの共同体全体が読み慣れていないのではないかという意
見もあり、今後マッカラーズ論を勉強していく必要があることを確認した。
(報告者 大武 佑)

第103回 2025年8月18日(土)午後1時00分~午後3時30分

@軽井沢(夏合宿)

テキスト: Carson McCullers, “The Ballad of the Sad Café”

■レポーター:菅原(前半)、大武(後半)

参加者:下河辺先生、菅原、髙瀨、大武、板垣、田浦、小宮山

 今回からマッカラーズの『悲しき酒場の唄』を読み始めた。

物語は、さびれた南部の町の風景描写から始まり、ひとつの建物から性別不明で両眼が内向きに寄った「顔」が現れる。この顔の持ち主こそ、かつて酒場であった建物に住むアメリア・エヴァンズだった。

4月のある晩、彼女のもとを「親戚」と名乗るせむしの男ライマン・ウィリスが訪れる。彼女は彼に食事を与え、寝床を提供するが、この出来事が町中の噂になる――今回はこの物語の冒頭部分を読んだ。

前半では、冒頭の描写が「町全体→家→人物(窓に現れる手、顔、眼の順)」とカメラの視点が俯瞰から局所へと絞り込まれていく点に注文が集まり、そこにカポーティを思わせる20世紀的南部小説の特徴を指摘する声が上がった。また、アメリアが“crossed eyes”、ライマンは“hunchback”と描かれるように、「身体に特徴を持つ登場人物が多い」点も重要である。発表者からは、「アメリアが非社交的に過ごそうとしているのに、取り囲んでいる人たちがみな、彼女の噂をしたがるところが面白い」とコメントがあった。実際、彼女が離婚した際にも町の反応は大きく、町全体が常にアメリアを意識している様子がうかがえた。

後半でも、集合的に描かれる町の人々の反応が続く。発表者は、町の人がアメリアに向ける気持ちに“pity, exasperation, sadness”に加えて“tickle”という表現があるのことを指摘し「彼女をからかいたい気持ち」が含まれていると述べた。またテクスト中の“dark”という語について、時間的、心理的、そして人種的に広がる可能性を指摘した。つまりミス・アメリアは「町にとって明確なメッセージを持たない噂のような存在」であるからこそ、逆に物語を聞きたくなるという意味でdarkな存在だと考えられるという意見もあった。言い換えれば、男たちにとっては掴みどころのないグロテスクな女がdarkとして意識されているのかもしれない。だからこそアメリアは皆が語りたくなる人物であり、小説の題材としては魅力的なのではないか、という意見も出た。果たしてこのdarkがどのように意味を変容させてゆくか、今後も追ってゆきたい。

最後に、食事の場面でライマンが「汚れた皿を変えてくれ」と要求した場面に、「怖さを感じた」という感想が出た。わたし自身も、この突然のライマンの潔癖な要求にぎょっとさせられ、言いようのない違和感を覚えた。この違和感も大事にして読んでゆきたい。

                                 (報告者:小宮山真美子)

第102回 2025年7月26日(土)午前10時00分~午後12時00分

@Zoom

テキスト: Carson McCullers, “Madame Zilensky and the King of Finland”

■レポーター:髙瀬、小宮山

参加者:大武、板垣、田浦、菅原

 今回より、マッカラーズの短編を読み始めた。最初のテクストは、「マダム・ジレンスキーとフィンランド国王」となる。ライダーカレッジの音楽科学部長Mr. Brookは、作曲家としても教育者としても評判の高いマダム・ジレンスキーを招いたが、彼女の様子が確実におかしいと思い始める。引っ越しのときの忘れ物への取り乱し具合や、子供たちの父親の話などが腑に落ちなかったからだ。ブルック氏の語り口が愛を語っているようでそうではないところが面白いという意見も出た。

 マダム・ジレンスキーがフィンランド国王に会ったことがあると述べるにいたって、ブルック氏は事態を明瞭に把握したと思った。最終的には彼女のいつわりに対して、ブルック氏は「素敵な方でしたか」と語りかけ、彼女への審問を愛情にくるんだ形で話を切る。ブルック氏はずっと、彼女がはからずも提示した謎を言語化したがっていたのだが、それはそのまま、壮大なる記号の世界で彼が路頭に迷ってしまうありさまが読み込めるのではという議論も行われた。また、彼がマダム・ジレンスキーへの審問をやめたのは、そうすることが、「殺人のように感じられた( “felt suddenly like a murder”)」と語られることから、殺人を思いとどまった小説と読む可能性についても議論された。

                                   (報告者:菅原大一太)

第 101  回読書会 2025年5月3日(土)午前10時~午前12時 

 ■レポーター:菅原、田浦 

参加者:菅原、小宮山、髙瀬、大武、田浦、板垣

  ホーソーンの短編 “Ethan Brand” を読んだ。前半では、バートラム親子のもとを訪れたイーサンの出現の仕方、“Unpardonable Sin”という言葉の出方に注目が集まった。バートラムが「許されざる罪はどこにあったのだね」と尋ねると、イーサンは「ここだ」と自分の胸を指差す。これは物語の比較的序盤である。この場面について発表者は次のように言っていた。イーサンは「沈思黙考」型のように見えたが、「単刀直入」に「さらっと」罪の在処について述べ、「軽快さ」もある。これは「肩透かし」だが「ミステリアス」でもある。「許されざる罪」とは具体的に何かという話題では、発表者が“intellect”を含んだ一文を取り上げたため、その切り口から議論が白熱したように思えた。その他、「笑いの音質」が多く含まれたテクストであるという点が耳に残った。バートラムの息子は外から聞こえる笑い声が “noise” に聞こえる。このような子ども(の感受性)の描かれ方は前半と後半を通じて話題になった点だった。

 後半、発表者が作成した概要は物語ラストの “Within the ribs – strange to say – was the shape of a human heart” という有名な箇所(代表的場面?)を省略しており、その編集がむしろ興味深いという指摘があった。たしかに面白い。私は発表者がその直前にある “repose” には発表中注目していたことを読書会が終わってから気づいた。そのほか発表では、短編ひとつからホーソーンの作家性全体を触知するような指摘が多く、勉強になった。「子どもにさえ物事の真理や奥底をつかませることを許さない(並の作家はそういう筋立てをするのだが)」、「ホーソーンは人間が変化するということにこだわっている」とか、「書かれる人間の多くが謎に包まれたまま死んでいくので、読者はそれをちゃんと読んで供養したくなる」など。英語で「供養」はどう言い表すのか、イーサンとバートラム親子のどちらに心理的にコミットしてしまうか、ラストのくだり(イーサンのハートは砕かれる)は面白いかどうか、など談論風発・議論百出のひとときでありました。 (報告者:板垣真任)

*読書会後、夏合宿打ち合わせと発表練習(小宮山さん@英文学会)

*今回からズームの契約をした下河辺のアカウントで行った。40分で切れるという問題が解決した利便性を感じて4時間にわたるセッションを終えた。(下河辺記)

**2024年の年末以来、私たちはメルヴィルの短編とホーソーンの短編を2つずつ読んできました。今回の読書会で参加者から「自分なりのメルヴィル観とホーソーン観を色分けていきたい」という言葉も出てきたように、研究上有意義な期間だったと思います。次回からはまた趣を変えて、カーソン・マッカラーズの短編集 The Ballad of the Sad Café を読んでいく予定です。

第100回 2025年3月28日(金)午後2時-5時 

ズームにて(40分で切れてはつなぎを繰り返した)

■発表者:大武、板垣

参加者:菅原、小宮山、板垣、田浦、大武、髙瀬

 2024年12月よりHerman MelvilleとNathaniel Hawthorneの短編を交互に読んでいる。今回はMelvilleの2回目。Diptyque作品の1つである“Poor Man’s Pudding and Rich Man’s Crumbs”を読んだ。

前半の“Poor Man’s Pudding”では語り手が詩人ブランドムーア氏の提案を受けて、Coulter氏の家を訪ね、夫人が「貧者のプディング」などの食事を用意してくれる様子が描かれる。発表者の大武さんが“almoner”という単語をイラスト付きで取り上げ知識が広がった。大武さんが取り上げたセンテンスでは、家の構造が湿気をもたらす様子が詳しく描かれており、湿度と気温の低さが貧しい暮らしをより一層厳しいものにしていることがわかった。また、切ってすぐの薪を燃やしている描写があるが、薪は乾燥させたものでなければよく燃えないため、これでは家が暖まらないことが、先生の軽井沢暮らしの経験からの補足があり理解が深まった。

 後半の“Rich Man’s Crumbs”では、語り手はロンドンを訪れて役人風の男に連れられ、「富者の食べ残し」をむさぼる群衆の様子を見に行く。発表者の板垣くんの前半はCoulter夫妻という個人を描き、後半は集団を描いているという前置きの通り、ロンドンへと舞台を移し、語り手のcharity見物はおのぼりさん的な雰囲気をまとっている。板垣くんの集団をあらわす単語の抽出や“might have ~”への指摘にも注目が集まった。“dress”という衣服の指摘も興味深かった。

 作品全体を俯瞰すると、前半と後半では舞台がアメリカの田舎のある家庭の貧困からイギリスの都市の貧困へと大きく変化しており、それによりヨーロッパからアメリカを眺める船乗りメルヴィルの視線もうかがい知ることができた気がする。

(報告者:髙瀬祐子)

*100 回目になりました。5月以降の読書会日程を相談し、夏合宿の日程の目安もできました。

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