大学院ゼミ読書会【第一期】

第45回 2018年3月24日(月)午前10時30分~午後12時00分

テキスト: Stephen King, “Apt Pupil”

 参加者:小宮山、髙瀬、大武、菅原、板垣、田浦、松丸

■レポーター:田浦、髙瀬

 今回は第26章から第28章までと、最後の第29章を2パートに分けて読んだ。ドゥサンダーの死が大々的にメディアで取り上げられるに及んで、トッドが関係していたことに対する驚きが広がり、警察もトッドの捜査に動き始める。ナチによるユダヤ人虐殺をおぞましいものと捉える理性を持ち合わせながら、人間が人間をあのようにまで虐げることがあるという内的な矛盾が“a secret knowledge”とテクストでは表現されており、それは「想像力のカタコンベを開けるような何か」と語られる。自ら気付かぬ自己をグロテスクな形で目撃してしまうときの無意識的な発露が読み取れ得るという点で、この小説も恐怖小説の類型ではないかという議論がなされた。最終章でのトッドの凶行もまた、狂気と理性の境界線のあり方や、逮捕が目前になったとき、自らの世界が壊されるという根源的な恐怖が表れるという点で、恐怖小説の要素を垣間見ることができるのではという議論もなされた。(報告者 菅原大一太)

第44回 2018年1月9日(金)午後3時00分~午後5時15分

テキスト: Stephen King, “Apt Pupil”

参加者:菅原、髙瀬、大武、板垣、田浦、松丸、小宮山

レポーター:板垣、大武

  今回は第21 -22章(板垣)、23-25章(大武)を読んだ。21章は父と息子トッドがユダヤ人ガールフレンドのベティについて話す場面である。父が手にした朝刊に、トッドが「南カリフォルニア地区高校オールスター」に選ばれた記事があり、父はそれを見て喜ぶ。その同じ記事を22章でトッドのかつてのスクールカウンセラー、エド・フレンチが発見する。その偶然からエドは自分が滞在しているサンレモにトッドの祖父が住んでいたことを思い出し、電話帳で住所を調べて会いに行く。目にした老人は自分がかつて会ったトッドの祖父ではなく、不審に思ったエドは24章で成績の記録が保管されている倉庫へ赴き、改竄されたトッドの成績表を発見して自分が騙されていたことを知る。23と25章はデュサンダーを中心として話が進む。ナチを追う「当局」のワイスコップが、眠りから覚めたデュサンダーを尋問する。彼が帰った後、デュサンダーは睡眠薬で自殺する。トッドもデュサンダーも別々の方向から追い詰められていたのだ。

 前半の父と息子の場面ではトッドの暴力的な内なる声が書かれており、青年の性欲と犯罪性が絡まり合って描かれていた。また性交の回数や殺人の回数など、トッドにとって数えることが彼の理性の土台となっていることを確認した。そしてトッドの嘘やデュサンダーの正体が外部から認識(recognize)されてゆく過程は、ささいな偶然(新聞記事、電話帳、隣り合ったベッド)から発生しているとの指摘もあった。また今回扱った章には、複数あるエドのニックネーム、デュサンダーの本名と偽名、パティンの収容所で殺された名前のない(持ち主のない)代名詞theyなど、名前とそれが指し示されるはずの実体の描写も反復的に繰り返されていた。秘密を共有していたデュサンダーの死が、トッドの物語に今後どう影響し、どのようなエンディングを迎えるのか。次回で本作は最終回を迎える。(報告者:小宮山真美子)

 

第43回 2017年12月23日(金)午後3時00分~午後5時15分

テキスト: Stephen King, Apt Pupil

 参加者:菅原、小宮山、大武、高瀬、板垣、田浦、徳永、松丸、(輝)

■レポーター 菅原、小宮山

今回はChapter 18・19(担当:菅原)とChapter 20(担当:小宮山)を読んだ。Chapter 18から突然モリス・ハイゼルという男が登場し、モリスは骨折して入院し、同じく心臓発作で入院していたデュサンダーと病室で隣になる。我々読者は徐々に、モリスが元強制収容所の囚人であり、デュサンダーが彼の看守だったことに気づく。そして、モリス自身が隣の男の正体に気づく過程が描写される。

物語が大きく動く “revelation” の回であった。特に、モリスが病室で隣にいる男が強制収容所で自分を苦しめた看守デュサンダーであるということに気づく過程の描写に注目が集まった。その場面にunlessが多用されていることをレポーターの小宮山さんが取り上げ、unlessについての議論がかわされた。モリスは、様々な情報から隣の男の正体をたぐり寄せていくが、視覚や嗅覚など五感にうったえる情報によって記憶がよみがえる様子は非常に興味深い。 (報告者:高瀬祐子)

 *読書会終了後、クリスマス会を行い、今年1年の締めくくりとなる楽しい時間を共有した。

 第42回2017年11月18日(土)午前10時00分~午後0時

テキスト: Stephen King, Apt Pupil

 参加者:菅原、小宮山、高瀬、板垣、田浦、徳永、松丸

■レポーター 高瀬、松丸

今回は13章から16章(担当高瀬)と17章(担当松丸)を読んだ。16章まではトッドとデュサンダーの浮浪者殺しが淡々と描かれている。デュサンダーが何回ホームレスに声をかけたか、トッドが何回現場の下見にいったか、あるいは一定の期間に何人殺害したかなどの即物的な描写が多いなか、二人がお互いの快楽殺人に勘付くようなシーンは一切ない。キングは彼らの殺人をただ併置するだけだ。そこに作者の意図はあるのだろうかという議論がかわされた。トッドは1977年の秋にライフルクラブに所属し、間もなくバークリーへの進学が決まる。卒業式を前にしたトッドが、フリーウェイを走る人々に向けて空砲を撃ちにいく第16章は、アメリカ社会で多発する銃乱射事件を想起させるものがある、という発表者の指摘が印象に残った。

  17章では物語が急展開し、デュサンダーが自宅で心臓発作に襲われる。すぐさま駆け付けたトッドは、救急車を家に呼ぶため、デュサンダーがやり残した死体処理をひきつぐはめになる。このときはじめて、トッドはデュサンダーの最近の殺人を知る。一方デュサンダーは、トッドのこれまでの行いに気づいていたかのような言葉を発している。発表者からは、デュサンダーの家の臭い(“smell”)に関し、これをナチスの記憶と結びつける興味深い指摘があった。デュサンダー家の換気扇(“fan”)から通り抜けていく(“permeating”)死体の臭いは、収容所の煙突から立ち上る死者の煙と、読者の想像の嗅覚を通してリンクするのではないだろうかという指摘がなさ                  (報告者 田浦紘一朗) 

 *慶應義塾大学三田キャンパスの研究棟のラウンジで行われた。

 第41回2 017年9月30日(土)午前10時00分~午後0時

 テキスト: Stephen King, “Apt Pupil”

参加者:菅原、髙瀬、大武、板垣、田浦、徳永、松丸

■レポーター:板垣、田浦

 今回は第11章・12章を読んだ。第11章では、ドゥサンダーがトッドを脅迫する際浮かべた表情の描写に注目した。キングはドュサンダーの笑顔を、smile into〜(笑顔を投げかけることで対象者を変化させる)ものだと表現しているとという指摘があった。キングがtoothlesslyなる造語を用いていることにも言及しつつ、ドゥサンダーの不気味な笑みをキングが意図的に異質で特別なものとして描写しようとしている点を明らかにした。本章のドゥサンダーには序盤に比べて精神的な弛緩が見られるが、参加者からはドゥサンダーの緩みがトッドに隙を見せるための計算づくのものではないかという意見があった。また、入れ歯を外して「歯がない」状態だからこそ、言葉の端々に緩みが出るのではという意見もあった。

 第12章では、トッドの凶器の変化についての言及があり、キングの小説『イット』にも出てくる地下排水溝(culvert)の描写にも注目した。キングは、地下排水溝をアメリカの暗部の象徴として小説に頻出させているのではという指摘があった。また、11章でトッドはアーミーナイフを手にするも殺人は行わず、12章では肉切り包丁を手に実際に殺人を犯す点について議論が集中した。この殺人描写からは11章と12章の浮浪者が同一人物であるかは問題でなく、とにかく殺人をしたいという欲望が窺える。トッドの中に生まれた殺人衝動は「ムラムラ」という擬態語で端的に表すことができるという意見に対し、多くの賛同が集まった。キングのエンタメ小説に描かれた暴力性が、80年代初頭のアメリカの一般大衆にウケた社会的背景にも注目しながら今後も読み進めたい。(報告者:松丸彩乃)

※ 慶應大学三田のラウンジで、アメリカ文学会東京支部会例会の前に行った。

第40回 2017年9月4日(月) 午後4時~午後5時

 テキスト: Stephen King, “Apt Pupil”

 参加者:菅原、小宮山、髙瀬、大武、板垣、田浦、徳永、松丸

■レポーター:大武、髙瀬

 今回は第10章を2つに分けて読んだ。前半部では、身元不明の犬の殺処分について語られる場面に注目が集まった。残虐性を避けるためになされたガスによる殺処分も、ホロコーストに関係を持つドゥサンダーにとっては、特有の意味をもつ。施設の担当者の姓名がユダヤ系であることもふまえ、収容所を我々読者に想起させる語り口について、議論がなされた。

 また、後半部では、トッドの見た夢と、彼によるドゥサンダーの殺害計画の描写について議論がなされた。この時点でトッドとドゥサンダーの権力関係はすでに逆転しているが、殺人の系譜までトッドは辿ろうとしている。「彼を殺せば、すべてが終わる」と考えるトッドの暴力性は、それを発揮することで心の闇から逃れようする行為、またはinnocentな自分を回復するための行為だとする解釈も、議論の中で出された。さらに、Kingによって描かれる彼の暴力性は、単に他者の生命を奪うだけにとどまらず、他者の存在自体をこの世から抹殺したいというほどの欲望にまで高められたものと捉える可能性にまで話が及んだ。(報告者:菅原 大一太)

*今回は箱根ビッグウィークでの開催となりました。参加者それぞれが、自分の立ち位置を再確認する場となり、とても有意義な空間となりました。2017年度後期に向けて、テキストを読み進めながら、それぞれの研究生活も前進させていければと思います。 

第39回 2017年7月9日(日) 午後3時~午後5時

テキスト:Stephen King, “Apt Pupil”

参加者:菅原、小宮山、高瀬、大武、板垣、田浦、徳永、松丸、(輝)

■レポーター:徳永、菅原

 今回は第9章の後半を二つに分けて読んだ。発表者は2人ともトッドとドゥサンダーの間に繰り広げられる権力関係(どちらに優位性があるか)、駆け引きなどに着目していた。

 徳永はreadが担当箇所に三回書かれていることに注目した。トッドは読むという行為を通じて、ナチに関する情報を得る快楽を感じていたが、ドゥサンダーは彼に“You read, but you don’t listen!” と言う。ここについて、「読む」=表社会、「聞く」=裏社会ではないかというコメントがあった。徳永はトッドが拠り所にする「読む」という権威、「読む」=知ることの力、という表現をした。

 菅原はドゥサンダーが対峙したエド・フレンチの頼りなさ、イノセントすぎる様子を指摘した。欺かれるアメリカ人の類型としてMelvilleの“Benito Cereno” のデラノが挙がった。また菅原は映像を喚起させるような単語をいくつも取り上げたが、これに関して、この小説は全体的に映像が読み手にしっかり浮かぶように書かれているというコメントがあった。

 2人ともドゥサンダーとトッドの「笑み」に注目していた。徳永の担当箇所では、ドゥサンダーの「笑み」が前景化し、トッドの顔は青ざめている。第9章の最後の場面では、トッドが鳥をいたずらに殺しながら笑みを浮かべる。ここで三回繰り返される “You see how it is, guys.”の差異について指摘があった。Guysとは読者を指すのかもしれず、私たちはだんだんとKingの織りなす恐怖の世界観に引き込まれているようだ。(報告者 板垣真任)

*軽井沢ビッグウィークにて行った。午前10時45分に軽井沢駅集合、11時から「フレス・ガッセ」にて昼食をしたのち、旧軽や万平ホテルなどを散策した。大武、松丸はそのままビッグウィークに宿泊。 

第38回 2017年4月29日(土祝) 午後3時~午後5時半 

■レポーター:高瀬・小宮山

参加者:菅原、小宮山、高瀬、大武、板垣、田浦、徳永、松丸、(輝)

テキスト:Stephne King, “Apt Pupil”

 8章はボウデン家での夕食の場面から始まる。招待されたドゥサンダーがトッドの両親を魅了(charmed)しながらも内心では出されたコニャックに嫌悪感を吐露したり、いつになく静かなトッドを関節炎(arthritice)にたとえたりする様子に注目が集まった。夕食後にドゥサンダーを送る道中でトッドは、ドゥサンダーから「両親との夕食をうまくやってのけたことに狼狽しているのではないか」と言われたために突然ヒステリックに反応する。発表では、トッドの示すいらだちは、コントロールできているつもりでいたドゥサンダーが見せ始めた主体性が原因ではないかという考察があった。それまでは一対一だったドゥサンダーとの関係が、トッドの両親が加わったことで「共同体」となり、そこでドゥサンダーが自分以外の他者とうまくやっていることに起因するという指摘もあった。

  9章はドゥサンダーが家の裏庭で猫と対峙する場面から始まり、トッドが成績表と学校からの呼び出し状を手に現れる後半部分で終わる。また、8章から続くドゥサンダーの主体性は、それまでトッドだけが見せていた笑顔(smile)がドゥサンダーにも使われるようになった点からも読み取れるという指摘もあった。この章では、ドゥサンダーの日常に過去が流れ込んできている点がディスカッションの中心となった。猫殺しの場面と交互に語られる悪夢や、取り乱すトッドへの落ち着いた受け答えと、戦時中のドゥサンダーによるシチューを用いた「エレガントな」尋問の対応関係が印象的だった。この章に漂う不気味さの原因の一つは、舞台が1975年にもかかわらず未だ戦争のコンテクストがかいまみられることにあるのではという指摘もされた。

  8章と9章に共通した指摘は、エンターテインメント小説独特の「安っぽさ」である。トッドと母親とのこれ見よがしのやりとりや、トッドの成績表の内容など、設定の甘さや場面の必要性に疑問が投げかけられた。(報告者 大武佑)

*読書会の後、サブライムにて、進学(松丸さん、田浦くん)のお祝いと、科研研究会の発表ご苦労様(徳永くん)の会をした。 

 

第38回 2017年4月8日(土) 午前10時~午後12時半

■レポーター:板垣、田浦 

参加者:小宮山、高瀬、大武、板垣、田浦、徳永、松丸

テキスト:Stephen King, “Apt Pupil”(第5・ 6 章、 第 7 章)

 今回は chapter5 から chapter7 までを読んだ。5章(担当板垣)では、息子ト ッドを一冊の本のように「読む」“read”父親ディック・ボーデンに注目があつまり、 息子もまた父の表情を「読んでいた」ことが言及された。また6章では、制服を身に纏 い異様な変貌を遂げたドゥサンダーが行進する場面が描かれているが、「制服をプレゼ ントしたことにより、トッドの欲望していたドゥサンダーの姿と目の前の姿が一致し た」場面であったとの意見が出た。
 7章(担当田浦)の発表では、ひとりごとや悪夢といった、トッドとドゥ サンダーの共通点に焦点を当て、その差異化が為された。ドゥサンダーが無意識的にド イツ語でひとりごとを話す点に着目し、普段使用しないよう心掛けているドイツ語と彼の 安堵感との関係が指摘された。彼らの夢を比較した結果、7章最後で制服を 着用したドゥサンダーが「夢のない(dreamless)」眠りにつくことを考慮すると、安 眠の術をもたない青年トッドのほうが危険な状態ではないだろうかというコメントも 発表者から出された。(報告者:徳永裕)

∗ アメリカ文学会支部会の前に、慶応大学ラウンジで行った。終了後、キャフェテリアでランチをした。

第37回 2017年2月4日(土) 午前10時~午後12時半

■レポーター:小宮山、大武

参加者:小宮山、菅原、大武、板垣、田浦、高瀬、(松丸) 

テキスト:Stephen King, “Apt Pupil” 

 今回はChapter 1の続きからChapter 4までを読んだ。小宮山さんの担当したChapter 1の後半では、ドゥサンダーの正体を見つけたトッドが彼に強制収容所でのことを話すのを強要し、ついにドゥサンダーが話しはじめる。トッドの政治観、経済観やドゥサンダーがアメリカで生活するために組織から資金をもらい、そのお金で株を買って配当金で生き延びているというドゥサンダーの経済活動について注目が集まった。また収容所での話をドゥサンダーがwouldで語っている点から、これは仮定法なのか? 過去の習慣をあらわすwouldなのか?と議論が盛り上がった。

 大武さんが担当したChapter2~4ではトッドとドゥサンダーの奇妙な交流が継続し、ドゥサンダーが衰弱していく様子やトッドと母のやり取りなどが描かれている。トッドがドゥサンダーから話を聞きだす様子は、トッドが精神科医の役割を果たしているようでもあり、ドゥサンダーにも予期せぬ効果を与えるが、その動機は治療とはまったく異なっている点や、二人の感じるwasteという感覚にコメントが集まった。また、全体を通して仮定法で語られる過去、特に仮定法過去完了で過去を語ることによる過去の書きかえに関心が集まった。(報告者:高瀬祐子)

 第36回 2016年12月18日(日) 午後3時~午後5時半

■レポーター:菅原、高瀬

参加者:菅原、高瀬、大武、板垣、田浦、徳永、小宮山

テキスト:Stephen King, ”Apt Pupil”

 今回からStephen KingのDifferent Seasonsを扱い、まずは”Apt Pupil”から読み始めた。物語はアメリカ人少年トッドが、ナチの元SSで戦後身元を隠し続けていたデュサンダーを尾行し、彼に直接接触するところから始まる。デュサンダーの家の中に入りドアが閉められたとき、”shut off the morning”という表現が使われ、「朝を締め出す」ことで時間が過去へと向かい、また外部との距離的な隔たりも意識されているのではないかという意見があった。トッドは友人の家で読んだ戦争雑誌や図書館でホロコーストに関する資料を「恋に落ちたように」読み漁る。彼がそれらの記事に”groove on it”し(ゾクゾクと楽しむ)、デュサンダーが強制収容所で行った行為に”aficionado”(マニア)という表現を使用していることで、十代の若者の俗っぽい興味の抱き方と、当事者であるデュサンダーの現実(過去)に対する言語感覚の差異が滑稽に示されていた。またこれらの出来事が「現在の戦争」(ベトナム戦争)が進行している1974年に設定されていることも、今後の展開になんらかの影響があるのではないか、との意見も出た。(報告:小宮山真美子) 

*今回は下河辺先生のお宅で読書会が開催された。開始前に棟田でとんかつをごちそうになり、終了後もちよりでクリスマスパーティを催した。それぞれの仕事や研究を確認しつつ、仲間たちと一年間を締めくくった。

第35回 2016年11月19日(土)午後3時~6時

Ralph Waldo Emerson, “Nature” (1836 ) 

(第8章“Prospects”)

■レポーター 小宮山、板垣 

参加者:板垣、大武、小宮山、菅原、田浦、高瀬、(松丸)

 今回は最終章“Prospects”を前半と後半にわけて読んだ。彼独自の“Nature”を語ってきたエマソンだが、本章で彼が“naturalist”(博物学者)と呼んでいる人間の自然観に対しては、どこか突き放した距離を取っているように思える。単なる観察“observation”でも分類“classify”でもなく、ManとAnother(自然)との繋がりを信じることによってのみ、彼が説くところの真実に辿り着くことができる、というのが、全体を通して見えたエマソンの自然観だ。

 エッセイを終わるにあたり、エマソンは、ある詩人が自分のために歌ったという言葉を引用するのだが、引用される言葉は、実はエマソンそのひとのものであった。このような、自らを遠回しに開示するエマソンの態度や、自然の外観について語りながら、すべてが人間精神の問題に収斂していくエマソン流の世界の見方に対し、いわば「自作自演」的であるという発表者の言葉が印象に残った。

 最後に時間に関する問いかけがあった。本章のタイトルである“prospects”もそうだが、エマソンの文体には、“gradually”など、時の経過や未来を感じさせるものがある。この時間を含んだ言葉遣いにこそ、エマソンの思想を読み解く鍵があるのかもしれない。われわれもまた、時間が経過したあとに、再びエマソンのテクストと向き合いたい。(報告者 田浦絋一朗)

*今回はOGの松丸さんがゲストとして参加した。次回からはがらりと趣を変えてモダンホラー作家スティーブン・キングを読んでいく。

第 34 回   2016 年 10 月 9 日(日)午後 3 時~5 時半
Ralph Waldo Emerson, “Nature”(1836)

(第 6 章“Idealism 4”, 第 7 章“Spirit”)

■レポーター:大武、田浦
参加者:菅原、小宮山、高瀬、大武、板垣、田浦、徳永

 今回は夏合宿で読んだ第 6 章“Idealism”の後半部分と第 7 章“Spirit”を読んだ。 第 6 章“Idealism”では「我々は自然を魂の付録“appendix”と考えている」という エマソンの指摘や「人間が行うことはすべて外部の世界の実感を得ることに影響を与え ている。しかし私はそのことに不敬な印象を感じていると(敢えて)言っておく“own”」 という彼自身の考えから“we” や “I”という単語が頻出していることに注目し、 “we”にエマソン自身が含まれているかという議論へと展開した。またエマソンは、信 仰を「目に見えるものは一時的なもの、見えないものこそが永遠」とするもの、つまり 自然に対する侮辱するものであると神学に異を唱え、 “Idealism”を信仰に対抗する自 然を理解する別の方法であるとした。

 第 7 章“Spirit”では、精神が「定理」 (言葉にされた定義) “propositions”として 残されるのを拒むものであり「我々を通して自然を芽生え“put it forth”させる」存 在であることが語られている。自然は「普遍精神を通して “through” 個人に語りかけ る偉大な器官 “organ” である」という発表者田浦さんによる引用に複数の参加者が反 応し、エマソンのテクストにおいて “thorough” は重要な単語であるとのコメントも出 てきた。また第 6 章と同様、本章でも“me” や “we”  などが多く出てくることから、エ マソンは人称代名詞を使い分けて聴衆との距離を図っているのではないかとの指摘も あった。 言語を音で伝えられる講演という形で発表された本テクストは、どのくらいの聴衆に 向けられたものなのか、彼らがエマソンの発言をすぐに理解していたのか、などといっ たことも加味して読まれるべきものなのではないだろうか。(報告者:徳永裕)

第 33 回   2016 年 8 月 29 日(日)午後 3 時~5 時半
Ralph Waldo Emerson, “Nature”(1836)

第6章 Idealism

■レポーター:菅原、板垣

  第6章Idealismの導入部分から3節までを読んだ。エマソンは、人間のもつ感覚(senses)の信憑性を計ることはできないために、その感覚が伝える自然は観念的なものだという。「感覚」がdespotism(専制主義)という単語で形容されている点や、エマソンが抱く感覚への懐疑が指摘された。また、詩人や哲学者に対して、「車の修理工」、「大工」、「料金徴収人」といった職業が引き合いに出され、彼らが「精神よりも自然の方が可変的で短命である」という考えに嫌悪感を示す人間の種類として例示されている点に注目が集まった。エマソンによれば、プラトンやアリストテレスは自然という魂を魂で貫いた。ここから、外部にあるものを掴むための構造を内面化しているのが人間だという意見もあった。レポーターが選んだセンテンスには、観念的な事柄に対して身体感覚を喚起する動詞penetrateやseizeを使う点に、エマソンの思想を動機づけるものが現れているという指摘があった。

 文章は全体として難解で、その難解さや読むときに感じる不安は、文中の動作の多くが主体を確定できないことからくるのではないかという指摘があり、当時の聴衆がテクストを追わずにどこまで理解した(または感じた)のかという疑問もでた。さらに、3章においては、シェイクスピアのTempestが引用されていることから、同時代の作家メルヴィルもシェイクスピアから他大な影響を受けていたことが指摘された。当時のアメリカ知識階級にシェイクスピアがどのように浸透し、影響していたのかという点を今後調べることで、19世紀アメリカ文学の読みかたに、今まで意識できなかった行きがでるのではないか。       (報告者:大武佑)

第32回 2016年7月2日(土)午後2時半~5時

Ralph Waldo Emerson, “Nature” (1836 ) 

(第5章 “Discipline” )

■レポーター:大武、高瀬

参加者:菅原、大武、板垣、田浦、徳永、高瀬

  今回は第5章 “Discipline”を前半と後半に分けて読んだ。educateやlessonという単語がよく出てくるというレポーターの指摘を皮切りに、では何が何をeducateするのかという主体と目的語の問題にみなの関心は集まっていた。一般的な辞書におけるdisciplineの定義はa way of training someone …. もしくはthe ability to control your own behavior ….である(LDOCE)という提示はレポーターからあったが、OEDを用いて200年前のdisciplineを考える必要があるという指摘があった。いっぽう、エマソンが負債について語っている箇所にsnowという単語があり、ここに『七破風の屋敷』との類似をみるレスポンスにおいては、ひとつの単語から当時の社会を覗けた思いがした。

 後半部分は前半にあったdisciplineの縁語も見られなくなり、内容は混迷してくる。レポーターが言及したセンテンスは、wordとactionが対立されてある箇所であり、エマソンは後者に優位を置いている。前半に、wordは自然が鋳造forgeされて出来するものという箇所もあり、前章 “Language”につづいてエマソンの言語観に関心が集まった。また、アナロジーについてエマソンが語っている箇所へのコメントもあった。エマソンはあきらかな類似だけではなく”great superficial unlikeness”の奥にも物体間の隠された類似を見ようとする。そして “Each creature is only a modification of the other.”とまで語る。彼のそうした態度から、彼の思想の全体像がうっすら見えてきたかもしれない。(報告者:板垣真任)

第31回 2016年5月1日(日)午後1時半~4時

Ralph Waldo Emerson, “Nature” (1836 )

(第3章 “Beauty” 前半 と 第4章”Language”後半)

■レポーター:菅原、田浦

 参加者:菅原、小宮山、大武、板垣、田浦、徳永、高瀬

 今回は12月に読んだ “Beauty” の後半部分と3月に読んだ “Language” の後半部分を読んだ。“Beauty” 後半部分では、美とは神が徳に与えたしるしである、という定義からはじまり、その後に続く様々な例証は難解だが「英雄たちは美しい行為に美しい場面[景色]を加える権利がないだろか?」という一節にBilly Buddを見たり、「すべての人間はある程度世界の表層に感銘を受けている。」という箇所にAhabを見ることもできた。 “Language” の後半部分でエマソンは、意味を表現するために自然界の物質に助けられているとし、世界は象徴的であり、品詞とはメタファーであると述べている。また、レポーターの田浦くんは言語の本質や精神と物質の関係は神の意志のもとに成り立っているため、誰にでも理解することができるというようなエマソンの言語観は「神頼み」であるとコメントしたが、むしろエマソン自身が「神」をやっているのではないかという意見もあり、言語と「神」については議論が盛り上がった。時々でてくる武器や争いをイメージさせる単語も興味深く、今後も注意して読みたい。(報告者:高瀬祐子)

 *終了後、今年度の夏合宿のスケジュールを相談した。その後サブライムに移動し、菅原さんの発表、板垣くんの修論お疲れさまや今年度から大学院に入学した徳永くんの入学祝いを兼ねてみんなで食事をした。徳永くんは今回が読書会デビューでした。

第30回 2016年3月26日(土) 午前10時半~午後12時

■レポーター:大武

参加者:菅原、高瀬、大武、板垣、田浦、小宮山

Ralph Waldo Emerson, “Nature” (1836 )(第4章”Language”前半)

今回は第4章”Language”の前半部分を読んだ。「言語とは自然が人間に仕える第三の機能である」というエマソンの定義から出発し、言葉が自然事象を表象する記号”symbol”であることを確認した。その際”emblem,” “image,” “picture”など言語に先立つ図/絵画などの視覚表象が使用されていることがレポーターから報告された。また普遍的な魂である”Reason”は、自然との関係の中で考察されるとき”Spirit”と呼ばれ(それは”Creator”でもある)、どのような言語を話していても、それは各々の言語で究極のrepresentationである”Father(神)”と呼ばれる。つまり「理性」は(現代の我われが思っているような)人間側のものではなく、神側のものなのだというエマソンの主張を確認できた。そして今回の議論の中心となったのは”analogy(類似)”という語である。人間とは自然界に充満する「類似」を見つける存在であり、歴史や聖書、植物の例の関係性の中から「自然」を読み解こうとする。そして「自然」がそれらを翻訳し「言葉」に変換されることがエマソンの喜びなのだが、真実を伝えたいという人間の欲望は、時に富や快楽といった俗世的な欲望によって損なわれてしまうことも指摘されていた。エマソンの文体に不慣れな私たちだが、今回の章は記号論に置き換えて考察できたこともあり、表層的な確認から一歩踏み込んだ議論ができたように思う。(報告者:小宮山真美子)

第29回 読書会 2016年1月30日(土) 午前10時30分~午後12時30分

Ralph Waldo Emerson, “Nature” (1836) (第2章、第3章“Beauty”の分析(1)まで) 

■レポーター 髙瀬、小宮山 

参加者:阿部、大武、小宮山、菅原、田浦、髙瀬 

今回の読書会では、“Nature”の第2章“Commodity”と、第3章“Beauty”を読んだ。第2章ではまず、本章のタイトルである“commodity”という語の意味が同時代的にどのような意味を持つのかという指摘がなされた。本テクストからこの語がOEDに例示されており、自然の恩恵から生じたであろう19世紀での「利益」という意味と、20世紀の「商品」という意味合いを比較して、語義の変遷と現代の資本主義との関連性について議論がなされた。そのことは、本章の後半で述べられる蒸気船や鉄道の発達にも関係性を持ち得るので、大変興味深い指摘であった。

また、第3章では、人間の崇高な欲求として、エマソンは美を愛するという点を指摘する。そして、人間が対象物に美を感じる際に機能するのが、人間の身体器官である眼であることにエマソンは注目し、“The eye is the best of artists.”とまで述べるのだ。本章についての議論の中で興味深かったのは、自然が擬人化されている箇所が取り上げられたことである。人間は対象から意味を産出する知性を持ち合わせているが、対象が自然である場合、エマソンは本章で、そこに美を追い求め過ぎてもいけないという。対象物になり下がらない限りにおいて美を読み込むということを示すのに、“What was it that nature would say?”といった、擬人法を用いている点に、エマソンらしさを捉えることができるのではなかろうか。(報告者 菅原大一太)

第28回 読書会 2015年12月19日(土)午後3時~5時

Ralph Waldo Emerson,“Nature” (1836 )(イントロダクション、第1章)

■レポーター 大武、菅原

参加者:阿部、板垣、小宮山、菅原、田浦、高瀬

エマソンの“The American Scholar”を読み終え、今回からは“Nature”を読み込んでいくことになった。本日は導入部および第1章を読んだ。 神学的なエマソンの自然観は難解ではあるが、そこには先祖たちの目を通してしか神と自然と人間との繋がりを享受できない回顧的“retrospective”態度からの脱却、ないしは超越を目指す態度が見受けられる。エマソンが用いる「自然」という用語には、大文字の“Nature”と小文字の“nature”があり、その理論的な差異がテキストの抽象度をさらに増加させている。今後も注意して読む必要があるだろう。 「透明な眼球」で知られる第1章には、「星を見つめる」という視覚的体験が語られる。その行為の重要性は、自然の崇高さ“the sublime”を感知することにある。自然と崇高さという関係から、ワーズワスなどのロマン派詩人とエマソンの関係が指摘された。また、参加者からは星の明るさに関する指摘もあった。当時のアメリカの人々が見上げた星の輝きと、今われわれが見上げる星の輝きには、大きな隔たりがあるはずである。素朴な疑問ではあるが、エマソンの思想に「眼球」というメタファーが深く根付いていることからも、彼らが見ていたものとわれわれが見ているものとの質の違いに目を向けることは、“retrospective”な読みに陥らないための重要な態度なのではないだろうか。(報告者 田浦紘一朗)

*今回は下河辺先生のご自宅にて行い、終了後、一足早いクリスマスの食事会をした。

第 27 回   2015年 11月 28 日(土)午後 1 時~3時

Ralph Waldo Emerson, The American Scholar” (1837)後半

■レポーター:小宮山、阿部

参加者:菅原、小宮山、阿部、大武、高瀬、板垣、田浦 (田中)

前回に引き続きEmersonの“The American Scholar” の後半を読んだ。後半は、学者の思想が実を結ぶための行動について、勧告的なことから哲学的・理念的なものまで幅広い内容が扱われていた。レポーターからは、“private history” “ private thoughts” や “public” という単語が複数使われているという指摘があり、最もprivateなことこそが実はpublicであるというような文章には多くの反応が集まった。また、聴衆であるエリート集団に向けての勧告的な言葉が多く見られた点も興味深い。これまで読んできた文学作品とは異なり、まだまだ理解できていない点も多いため、Emersonの他の作品を読んでから、再読したいという話もでた。(報告者:高瀬祐子)

*終了後午後4時~6時『首相官邸の前で』自主上映会を行った。

*今回は下河辺ゼミOGの田中さんも参加した。  

第 26 回   2015 年 9月 26日(土)午前10 時~12時

“The American Scholar” (1837)(前半)

■レポーター 田浦、板垣

参加者:阿部、板垣、小宮山、菅原、田浦、高瀬

第1回読書会から約3年にわたって読んできたPoeに替わって、今後しばらくはRalph Waldo Emersonを取り上げることになり、本日は “The American Scholar”の前半部を読んだ。 テキスト内で自然と肉体を関連づける単語が度々用いられていること、 “creator”や“inventor”を示す“Man Thinking”と、 “bookworm”で言い表せるような“mere thinker”との違い、また西欧との徒弟関係を終わらせようという主張が所々にみられることが、レポーターから指摘された。また、職業により人間としての価値がバラバラになっていくという意味で使われた“amputation”という語は、例えばMelvilleが描くAhabの痛みとは全く異なった用いられ方がなされていた。 本テキストは、文学作品ではなくエリート集団を対象とした講演記録であることから、その内容が意図するところや、リズミカルで韻を踏んだ言い回しも注目された。Poeと同じ時期に活躍した作家として比較してみるのも面白いかもしれない。(報告者 阿部暁帆)

*慶應大学研究棟のラウンジを借りて行われた。

  第25回 2015年8月19日(水)午後3時~4時

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)

■レポーター:菅原・高瀬

参加者:菅原・小宮山・阿部・高瀬・大武・板垣・田浦

作品の最終章である24章では、ピム、ピーターズ、そしてヌー・ヌーという名の島の族長がカヌーに乗ってさらに南方へ進む様子が語られ、辺りを覆う灰のようなものや水蒸気が、南に進むにつれてperfect whitenessへと変化する点から、「白」という色彩にどのような意味が込められていたのか、ポーが抱いていた黒人に対する恐怖とどう結びつくのかということが議論された。 カヌーの前に垂直に立ち上がる水蒸気と灰でできた帳に用いられるarizeという動詞は前章でも取り上げられた垂直方向の動作を示し、真っ白な肌をしたhuman figureの登場には、なぜfigure(人間)なのか、という疑問も生まれた。併せて、当時の疑似科学における極地論を知るため、ポーにも影響を与えたJohn C. Symsの説をあたる必要もあるという指摘がなされた。 Noteでは、誰が書いたのかが不明な文書であるということに注目が集まった。作品の編集者ではないかという意見が興味深かった。作品を売りたい編集者?が作品の信憑性(credit, verocity)を高めることに積極的である一方で、作家ポーは、作品の信憑性に疑念を抱いており、信憑性に対する正反対の態度は、ポーの中での矛盾の表れではないかという意見が出た。最後の2,3章はピムの自殺により失われた設定になっており、結末に残るフラストレーションを解消させない書き方と、ポーの当時の状況に思いを馳せた。 最後に、ポーの唯一の長編である本作品を一年かけて読んだ感想を一人ずつ述べた。作品全体を俯瞰すると、ポーの筆致が後になるにつれて速まっている点、雑誌連載という形式のためか章ごとのつながりがなく、各章にクライマックスが設けられているという点、ピムは合計四種類の「船」に乗っていたのだという点などを話し合って終わった。(報告者 大武佑)

*伊豆高原ビッグウィークでの合宿一日目の第一セッションにて、第24章とNoteを読んだ。これまで3年にわたりポーを読んできたが、次からはエマソンを読むことになる。まず、”The American Scholar”を読む予定。

第24回 2015年7月18日(土)午後1時30分~3時15分

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket  (1838) (第14回)

■レポーター: 小宮山、阿部

参加者:阿部、板垣、大武、小宮山、菅原、田浦、髙瀬

今回の読書会では、Chapter 23とChapter 23bisを読んだ。登場人物が探索する洞窟はPym研究においてフィーチャーされることが多い。ただ、テクスト全体を俯瞰してみると、登場人物がその洞窟に居るのはChapter 23の間のみである。 Chapter 23では、食料が尽きたピムとピーターズが丘の上から動き出す場面が語られている。「降下」という感覚、垂直方向への移動はテクスト上で強調されてある。この点に関して、圧迫した裂け目にはさまるという身体状態や、光を求めるという行為について指摘があった。不自由な暗闇における空間的オリエンテーションは、作品冒頭やポーの他作品にも共通する話題である。また、二人が探索した洞窟の図についての記述 “a human figure”が本文中に三回も出てくる、という発見があった。壁画や暗号の図版は当時どのように印刷されたのか? という疑問も挙がった。 chapter 23 bisでピムたちはついに島を脱出する。「落ちる(降りる)」感覚がひきつづき強調され、この章ではさらにheadlongやprecipitateという語が用いられている。自己分裂や死に対する衝動といったポー特有のテーマ、もしくはperversenessという心的態度が分かる。「島」という地理自体に対する意見も多く出た。島の黒い土 “marl”とトニ・モリスンにおける “tarl”の用い方に関連があるのではないか、という発表は興味深かった。 (報告者 板垣真任)

*午後4時より10号館3階小会議室においてZelideth Maria   Rivasさん(assistant professor, Marshall University)をお呼びして研究会を行った。タイトルは “Beyond the In-Between: Mestiço, Hāfu, and Self-Recognition of Mixed-Race Japanese Brazilian Identities” であった。この読書会では、英語による研究会は初めて行われ、活発な議論がかわされた。終了後、ゼリさんをまじえてSublimeで食事会を持った。

第23回 2015年5月5日(火)午後2時30分~4時30分

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket  (1838) (第13回)

■レポーター: 大武、髙瀬

参加者:阿部、板垣、大武、小宮山、菅原、田浦、髙瀬

今回の読書会では、第21章と第22章を読んだ。第21章では、ピムらが土砂で生き埋めにされ、そこからようやく脱出した様子が描かれる。土砂で身動きが取れず、呼吸もできないほどの圧迫感に襲われたピムによって、窒息や暗闇への恐怖が語られることから、恐怖についての『ピム』とポーの他の作品との関連についての議論が交わされた。また、“perpendicular”という語が多用されている点に着目し、前後左右がすべて垂直でしか語られず、前進・退却といった方向感覚が失われていることについて議論が進められた。 第22章では、ピムらの母船が、現地人によって襲われ、破壊される様子が描かれる。その様子は、高台に移動して見ていたピムの目を通して語られるのだが、遠目で一部始終を目撃し続けているにもかかわらず、その内容が非常に詳細で多岐にわたる点や、母船で襲われた6人の仲間についてはあまり語られない点など、この場面での視線の特徴が議論に上った。(報告者 菅原大一太)

*博士前期1年に入学した田浦紘一郎さんが初めて参加しました。また、大武さんが茨城高専に専任として着任しました。この二人のお祝いをかねてお料理とケーキをいただきました。

 

第22回 2015 年3月28日(土) 午前11時~午後13時

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第12回)

■レポーター:菅原(19章)、板垣(20章)

参加者:菅原、小宮山、阿部、大武、板垣、高瀬

あらすじは、到着した島に住む原住民たちとピムたちとのやり取りや彼らとの交易の様子、そして原住民が仕掛けた罠にPymたちがはめられるところまでが描かれる。(但し、ピムたちはまだ何が起きたか気づいていない。) 19章では、ガイ船長が送ったビーズとナイフに対して、原住民がビーズには不満を、ナイフには満足した様子を示した場面に注目し、三角貿易においてビーズはアフリカでは高価で取引され、時に奴隷と交換されることもあったという情報なども混じえて話し合った。また、単語では原住民の様子にsystemという単語が使われていることから、systematicな計算された対応であったことがうかがえる。appearという単語も複数回出てくるので、当時は○○のように見えたが、今にして思えば本当は△△だった、というような原住民に対しPymが回想している様子がわかる。 20章ではPymたちが、原住民に前後を囲まれ一団となって歩く様子を「囲まれるとかたまる」と板垣くんが表現しおもしろかった。先住民たちがPymたち侵入者側の申し出にすべて快く応じ、いい人を演じている様子に注目が集まった。その後、Pymたちを皆殺しにするための罠が決行されるが、原住民たちの邪悪性については今後の章でも引き続き注目したい。(報告者 高瀬)

*慶應大学研究棟のラウンジを借りておこなった。

 

第21回 2015 年1月24日(土) 午前10時~午後0時半

■レポーター:阿部(17章)、小宮山(18章)

参加者:菅原、小宮山、阿部、高瀬、大武、板垣

南極圏に到達したピム達が、ひたすら南方へ進む様子が、southwardという単語をくり返し使って描写されていることに着目し、南北方向とは地球の球体上では平面上の動きではなく、三次元的な移動を表すということを話し合った。ガイ船長に対して、船を南へ向けるための説得をするピムの様子には、彼を通して、19世紀当時の人々の持つ南極に対する欲望が見て取れ、船長に対するピムの影響力にも注目した。 また、当時のテクノロジーの一つであるsounding gear(水深計、測深儀)を描写しつつも、水深ではなく潮流に言及している点も興味深かった。 ピム達が降り立った群島では原住民が登場し、彼らが船に示す素朴な好奇心と、今後の彼らの変化を話し合った。原住民達が口にするわけのわからない言語が、音声から文字へと書き写されることで差異化されているという指摘もあった。また、18章の最後に詳述される、紫色のグラデーションを持ちナイフで切り分けることができる不思議な水脈の描写を、言語学的な観点から読む事ができるのではないかという意見も出た。(報告者 大武佑)

*慶應大学研究棟のラウンジを借りておこなった。終了後、ファカルティクラブでランチをした。

 

第20回 2014年12月22日(月) 午前4時~午後6時半

■レポーター:大武

参加者:阿部、大武、菅原、小宮山

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第10回)

今回は第15章、16章を読んだ。クリスマス港から出港し、トリスタン・ダ・クーニャ諸島で食料を得ると、船乗りたちの間で噂になっているオーロラ諸島を探したが、島の痕跡を見つけることができなかった一行は、針路を南へ向け南極圏へと突き進む筋書きである。途中に南極探検の歴史が挿入されており、1772年からアメリカ、ロシア、イギリスなど、各国が未知の空間を獲得しようとした経緯を知ることができた。また島は人に統治者(sovereign)になれるという誘惑を与える空間であること、そして南へ向かうガイ船長の欲求がエイハブのように航路を決めるきっかけとなっていることも確認できた(当初の目的はアザラシの捕獲だった)。中でも南へ向けて航行する際に”penetrate”という動詞が頻出しており、「より遠くへ」「可能な限り遠くへ」という言葉と結びついて使用されていることは興味深い発見であった。緯度・経度の描写も多く、地球儀を傍らにして読む必要性を感じた。(報告者:小宮山真美子)

*今回は下河辺先生のお宅で読書会を開催し、終了後クリスマスパーティを持った(授業があった板垣くんも遅れて参加)。それぞれの仕事や研究を確認しつつ、仲間たちと一年間を締めくくった。

 

第19回 2014年11月15日(土) 午前10時半~午後12時半

■レポーター 菅原(13章)、高瀬(14章)

参加者:阿部、板垣、大武、小宮山、菅原、高瀬

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第9回)

今回は第13章、第14章を読んだ。前章に引き続き、ピムとオーガスタス、ピーターズの3人が船で漂流している場面で始まり、そして壊疽が原因でオーガスタスが死に、やがてジェーン・ガイ号によって残る2人が助けられる。読む前に、彼らが辿った航路を地図で確認したが、航路距離と文章の長さ(テクストの頁数)が比例していないことは非常に興味深かった。 オーガスタスの死については婉曲的な表現方法が用いられている一方で、船周辺に迫るサメについては自然主義的な描かれ方がなされるといった、対照的な描写にも注目が集まった。また、 “vertical”という単語については今後も気に留めて読んでいきたい。今回読んだ章は、航海日誌形式で書かれていたり、ケルゲレン諸島の動植物についての描写が中心であった。当時手に入る航海記録資料等を多く読んだうえでポーが作品を執筆したことがよくわかる。(報告者 阿部暁帆)

*午後からアメリカ文学会東京支部例会があったため、三田の慶應大学研究棟で読書会を行った。

 

第18回 2014年9月27日(土)午前9時30分~11時 

■レポーター 大武(11章)、小宮山(12章)

参加者:阿部、菅原、小宮山、高瀬、大武、板垣

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第8回)

今回は第11章、第12章を読んだ。飢えに苦しむピムたち4人が、仲間の1人を食べて、残り3人が生き残るという最後の手段に行きつき、実際に食べるところが描かれる第11章・第12章を読んだ。両方の章で、1人を殺し、3人が生き残ることがpreserveを使って描写されていた。第11章では、飢えによってだんだんと異常な様子を示す仲間たちを冷静に見つめるピムの姿や、仲間の1人を食べるという方法について、心に抱きつつも口には出さない緊迫した様子をあらわすセンテンスに注目が集まった。 第12章の実際に食べる場面は、詳細に描かれているわけでもなく、まったく描かれないわけでもなく、その描き方について議論が盛り上がった。また、パーカーを食べた後すぐに斧の存在を思い出し、貯蔵室を壊し、オリーブやハム等の食糧を手に入れてしまうというあらすじについても様々な意見が聞かれた。当時カニバリズムは、陸でも海の上でも飢えで切迫した状況においては珍しいことではなかったという註の情報にも留意する必要があるかもしれない。(報告者 高瀬祐子)

*午前9時30分から開始した。11時より成蹊大学の非常勤の集まりがあり3人がそちらに参加するためであった。午後はアメリカ文学会東京支部会が三田の慶應大学であり、そちらに移動した人もいた。

 

第17回 2014年8月3日(日)午後2時30分~3時30分

■レポーター菅原(8章)、阿部(9章)、高瀬(10章)

参加者:阿部、高瀬、菅原、小宮山、大武、加藤、板垣

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第7回)

今回は第8章から第10章までを読んだ。第8章では、恐怖の描かれ方についての議論がなされた。ピムとオーガスタス側のグループは、幽霊や迷信といった、現実社会の脈絡から逸脱した脅威を示すことで相手方を圧倒した。しかし、逆に自分たちは沈みかけた船内にあって、水没という脅威と戦うことになる。 第9章では、生命の危機をもたらすものの特徴について話し合った。この章では、水没に加え、今度は飢えと渇きという脅威が現れる。また、そこから脱却する手段として食糧探しが行われるが、それに加えて、信仰心の出現が極限状態を特徴づける描写として議論がなされた。また、この点については、歌曲Amazing Graceとの関連性についても議論がなされた。 第10章は、語ること・語れないことと、視覚的要素との関係に着目した。衝撃的な出来事に言葉を与えたくても、それができない様子は、そうであるだけにいっそう、その衝撃の強さを物語ることが指摘された。そして、ピムとオーガスタスの視線の絡み合いは、cannibalismへと進んで行くことも言及された。(報告者 菅原大一太) *2014年8月3日(日)から8月5日(火)まで、大学院のゼミ合宿がビッグウィーク京都にて行われ、この読書会はその中で開催された。合宿初参加の博士前期板垣真任君、また、小宮山、高瀬のお二人は家族を連れての参加となり、大変にぎやかな合宿となった。

第16回 2014年6月21 日(日)午後2時30分~4時30分

■レポーター:小宮山(6章)、大武(7章)

参加者:小宮山、菅原、阿部、高瀬、加藤、板垣、萱場、大武

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第6回)

第6章と7章を読んだ。6章では、船上に残っている13人には、実在の人物名が使われていること、特に、ノアの反乱の首謀者であったRichard Parkerの名前はメルヴィルのBilly Buddにも登場するという発見があった。また、次の7章でピムとオーガスタスと行動を共にするダーク・ピーターズの立ち位置には揺れがみられ、船上での反乱が起きる前の、敵と味方との境界が曖昧な不安定な人間関係も描かれていると話し合った。7章では、航海士の心理はピムによって分析される一方で、ピーターズの行動の意図などは明確に描かれていないことに注目した。また、乗組員の死の扱いが軽く、船上の人数減らしが目的であるようなポーの書き方にも言及があった。 6章と7章の共通点として、それぞれ「積み荷」と「風」という、海上の船に影響を与える要素に関する話の脱線が挙げられた。脱線によって物語に信憑性を与えようとするポーの努力や、航海術というテクノロジーに対する関心、メルヴィルの海洋小説との比較などが話題に上った。(報告者 大武佑)

*6月28日のアメリカ文学会東京支部会で研究発表予定の高瀬さんがポーの「アッシャー家の崩壊」についての発表の練習を行った。また、8月の京都合宿の予定も話し合った。

 

第15回 2014年5月5日(日)午後3時30分~5時30分

■レポーター:大武、菅原

参加者:菅原、阿部、高瀬、大武、加藤、板垣、小宮山

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第5回)

今回は第三章と第五章を読んだ。このふたつの章は船底のピムと船室のオーガスタスのそれぞれの実体験が語られており、両者の時間が同期してゆくという関係性を持つことが判明した。たとえば三章でピムはタイガー(犬)が運んできたオーガスタスの手紙を暗闇の中で必死に解読しようと試みたが、五章ではこれを記したオーガスタスの状況が描かれている。 また救済に向かったオーガスタス(五章)と、それを待つピム(三章)が暗闇の中で発した音や声など双方の視点から語られていたので、五章を読むと三章の謎解きができて非常に興味深い読みができた。また語りにおける過去完了形の使われ方を確認したり、ピムの語り自体に様々な「時間」が入りこんでおり、過去 の出来事に対する語りの濃淡の付けられ方などが議論された。(報告 小宮山真美子)

*今年から博士前期に板垣真任くんが入学し、博士後期に加藤晶子さんが進学しました。オランダから帰国した小宮山さんも久しぶりに参加しました。また、昨年卒業した萱場千秋さんが見学にみえました。夏合宿の相談の結果、今年は8月に行うことになり、初めて京都ビッグウィークを使うことになりました。

 

第14回 2014年3月2日(日)午後1時30分~3時30分

■レポーター: 阿部

参加者:菅原、阿部、高瀬、加藤

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第四回)

第三章をあとまわしにして第四章を読んだ。オーガスタスは食料と水を持ってきて隠れている間に何が起こったかを語る。出港後、航海士が部下を率いて反乱を起こす。航海士は常日頃から船長に不満を抱いていた。多くの船員はその場で殺されたが船長と数名の者は救命ボートで大海に流された。ゴードン•ピムたちにとって強い味方、インディアンとのハーフであるピーターズという怪異な風貌をした者が現れる。ポーが、船や海などに関連する語に詳しいことに驚き、注目が集まった。(報告 加藤晶子)

 

第13回 2014年1月13日(月祝)午前11時30分~午後1時30分

■レポーター:菅原、高瀬

参加者:菅原、阿部、大武、高瀬

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第三回)

今回は第2章を読み、考察した。第2章ではいよいよピムがグランパス号に乗り込み出港する。オーガスタスは船長である父とともに正式な乗組員として乗船するが、ピムはオーガスタスの助けを借り、船倉の箱の中に潜むこととなる。今回はあいまいなプロットやポーならではの埋葬のモチーフ、色彩と感情の描写などが議論として持ち上がった。まず、ピムがどこからニューベッドフォードに来たのかがはっきりせず、突然ピムの愛犬が船倉に登場するのも唐突で不自然である。 また、ピムが箱の中に身を隠すという行為は度々ポーの作品に登場する、「生きながらの埋葬」というテーマに通じるが、埋葬されるのが物語の語り手ピムであり、美女ではなく男だという点も興味深い。本作品の出港やピムの船出の動機に関する論文は少ないようなので、今後の研究への発展が期待できる。(報告:高瀬祐子)

 

第12回 2013年12月15日(日)午後4時~6時

■レポーター 阿部・菅原

参加者 阿部、大武、加藤、菅原、高瀬、峰岸

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第二回)

第1章での語り手による執筆までの経緯説明を受けて、第2章ではピムをはじめ、そして語り手をも含めた、作中人物による物語が始まった。語られる物語としてのプロットがこの章から動き始めることになる。今回持ち上がった議論は、まずピムとオーガスタスの酩酊状態を足場に、理性とその逸脱という内的差異についての、ポーの他の作品との関連性であった。また、語りに関して、オーガスタスの生の声が出てこないことから、そこに語り手の躊躇を見出す可能性についても議論がなされた。さらには本テクストの一人称の語り(主観)と客観性との関係とその方向性にも着目し、大いに興味深い考察となった。(報告 菅原大一太) *今回は下河辺宅に於いて読書会を開催し、終了後クリスマスパーティを持った。

 

第11回 2013年11月23日(土・祝)午後4時~5時半

■レポーター 高瀬 参加者 菅原、阿部、高瀬、大武

The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket (1838)(第一回)

前回までの短編にかわり、今回からポー唯一の長編小説である『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』を扱う。先行研究の紹介や、作品の舞台である航路(主に南半球)について地理的な確認などを行った後で、いよいよ作品に入った。 本文冒頭のタイトルページには「虐殺」や「反乱」といった言葉が随所にみられ、物語がただならぬ展開をみせることがここで予見できるという言及があった。 続いて、ピムが記した物語執筆までの経緯に関する序文については、彼自らが執筆したがらない具体的な理由について議論が様々になされた(明らかにすると不都合な事実、またカニバリズムの問題など)。更に、ポーによるフィクションとして始まった連載が途中からピムによる執筆に替わったという記述も気に掛かり、今後本編を読んだ後で再度序文を読み返そうということになった。(報告 阿部暁帆)

*終了後、6時半より科研費プロジェクト研究会「トランスアトランティックメルヴィル」(講師 西谷拓哉先生)が行われ、菅原大一太さんが発表しました。

 

第10回 2013年9月27日(金) 午後6時半~8時50分

■ レポーター 大武、田中(代読大武)

 参加者 菅原、阿部、高瀬、大武、田中、峰岸

“The Masque of the Red Death” (1842)

空間や時間を「区切る」という概念が一つの論点となった。疫病の蔓延する城の外部と内部を区切る壁や、仮面舞踏会の時間を区切る時計のチャイムの音などがどのように描写されているかを追ってみた。また、印象的なクライマックスについては、赤き死が外部から入り込んできたという解釈が一般的だが、実は壁の内側に新たに発生した病ではないのかという意見や、仮面の人はプロスペロー自身の姿ではないのかという新しい推測から議論は盛り上がった。4ページ弱の短い作品だが、他の短編との関連の可能性もうかがえる興味深い作品であった。 (報告 高瀬祐子)

*次回よりThe Narrative of Auther Gordon Pym of Nantucketを読む予定。本作品の解説および批評の紹介が下河辺より行われ、次回の担当を決めた。

 

第9回 2013年7月13日(土)午後3時45分~6時

■ レポーター 菅原、阿部、大武

参加者 菅原、阿部、高瀬、大武、加藤、峰岸

“The Fall fo the House of Usher” (1839) 「ライジーア」との関連で、同じく美女の死と復活を描く「アッシャー家の崩壊」を改めてじっくりと読んだ。タイトルにもなっている「家」に着目し、その内部の装飾や内部にまで及ぶ植物の様子、そして沼に飲み込まれてしまう家そのものが何を表すのかについて考察した。また家系の純粋さが、アッシャー兄妹の精神の不安定さとアッシャー家の崩壊に関連しているのではないか、さらにマデリンの死のタイミング(本当に死んだのか?)、生と死の境界について議論が白熱した。そもそも語り手である「私」自身気が狂っているために見た幻ではないかとの説も飛び出した。(報告 峰岸杏里) *ゼミ合宿のセッションの一つとして伊豆高原ビッグウィークにおいて行われた。

 

第8回 2013年6月25日(火)午後4時半~午後6時半 合衆国における「労働」の文化表象 第一回研究会

■ 発表者 新田啓子(立教大学教授) ■ 参加者 菅原、加藤、峰岸、大武 “Modern Domestic de race”――家内労働と生の境界 「労働」が表象するものを、従来のマルクス主義によってではなく、文学コンテクストにおいて再定義するという試みが、立教大学の新田啓子先生による発表でなされました。 発表では、ヘンリー・ジェイムズの短編作品に登場する、使用人や、女家庭教師を「家内労働者という種族」として読み、内なる他者である彼らが、雇い主である主人やその家族に対して感情的、性愛的な依存関係を作り上げることで、実は、自らが「主人」となりえる「家族」を外部に再構築しているという論の展開に刺激を受けました。また、マルクスが批判する、金銭の交換という価値では計れない「労働」を行う家内労働者が持つ再生産の可能性は、彼らがマージナルでクイァな存在であることに由来するとの指摘が印象に残りました。 スピーディで密度の濃い発表に対するレスポンスの場は、緊張感のあるものでした。参加者と発表者との意見交換では、家内労働者と主人との依存関係には相互性があるという新たな視点が生まれたことも印象的でした。各々が、自分の研究との関連や、身近な例に引きつけた感想を述べることができたのは大きな収穫のひとつでした。(報告 大武佑)

*成蹊大学CAPS共同プロジェクト「合衆国における『労働』の文化表象」第一回研究会に参加することで通常の読書会に代えました。

 

第7回 2013年5月4日(土・祝)午後2時半~午後4時半

“Ligeia”

■ レポーター 菅原、阿部

参加者 菅原、小宮山、阿部、高瀬、田中、加藤、峰岸、大武

発表とディスカッションを通して「コントラスト」と「反復」というテーマが浮かび上がった。ライジーアの持つ落ちついた外見と、それとは対照的な情熱的な内面の描写や、ライジーアが豊かなブルネットであるのに対し、語り手の二番目の妻となるロウィーナが金髪碧眼であるといったコントラストについて、「蘇生」の反復をもちいて生と死の二項対立を崩そうとするポーの姿勢との関連を話し合った。また、本作品がTales of the Grotesque and Arabesqueという作品集に収録されていたことから、物語中で描かれるアラベスク文様やライジーアの「異教徒のような」風貌など、オリエンタルなイメージにも着目した。語り手がアヘンを使用している点から、次回読書会で読む”The Fall of the House of Usher”にも描かれるアヘン中毒患者の感性やアヘンの文化史的な背景にも興味が広がった。(報告 大武佑)

*オランダ行きをひかえた小宮山さんが長野から参加し、終了後は秋山さん、ゆりさんもまじえてお弁当をいただきました。

 

第6回 2013年3月17日(日)午前10時半~午後12時半

“William Wilson” (1839)

■レポーター、小宮山 高瀬、 遠藤 菅原(“Howe’s Masquerade”担当)

参加者 阿部、小宮山、菅原、高瀬、大武、遠藤、田中、加藤

ドッペルゲンガーをテーマに扱っている本作品は、主人公自身の狂気と自己の分裂を彼の生涯の流れに沿ってゆっくりと説明している物語です。「他人を支配したい」「他人を否定したい」という誘惑による感情が自分自身を苦しめ堕落していくのだと思わせる作品でした。また、terrorとhorrorの単語の多さにも注目が集まり、楽しい読書会でした。(報告 加藤晶子) *卒業式を2日後にした、今回の読書会は早めの桜が咲く日曜日に行われ、久々にお会い出来るメンバーとの時間を楽しみました。

 

第5回 2013年1月19日(土)午後4時半~6時半

“The Black Cat” (1843)

■ レポーター 大武 菅原

参加者 阿部、高瀬、遠藤、曽山、加藤、峰岸

今回は、intemperateという単語から、アルコール中毒だったPoe自身や、植民地時代にも刑罰とされたdrunkerなどに着目し、酒によっておとしめられる人への洞察を話し合いました。また今回最も白熱したのは、物語の冒頭でhousehold eventsと言及しながらも一見「家庭での出来事」のように見えない一連の事件も、描写の少ない妻に注目してみると「妻殺し」の話として読めるのではないか、という議論でした。さらに猫のキメラのイメージは黒人と白人の異種混交を連想させるといった話や、猫の斑点や壁のシミは人間があとから意味を付与しているという考察、そして今回はあまり触れられなかったperversenessとlawとの関係性など、改めて読み直してみたいテーマが多く見つかった読書会となりました。(報告 峰岸杏里)

 

第4回 2012年12月22日(土)午後4時半~6時半

“The System of Doctor Tarr and Professor Fether“(1845)

■レポーター 大武 高瀬

本作品では、語り手である「私」がパリを訪れている間、たまたま立ち寄った精神病院で遭遇した「逆転劇」が語られる。今回の会ではまず、謎解き小説という観点から、作中人物である「私」と、読者が得られる情報の差について詳細に検討され、議論された。そして、正気の人物を動物に見たてて語られることの意味や、sane とinsaneの境界線や文化的な意味合いなどに話が及び、また、狂人への恐れの感情についても、horrorやterror、madといった、テクストで用いられる言葉をもとに議論をした。そして同時代的なコンテクストに目を向け、19世紀半ばの精神病院という施設について持ち上がっていた問題や、さらには、批評のコンテクストから“Benito Cereno”との共振やThe Yellow Wallpaperとの関連の可能性についても議論がなされた。 (報告 菅原大一太)

 

第3回 2012年10月15日(月)午後4時半~6時半

“The Purloined Letter“(1845)

■レポーター 阿部 大武

前回読んだ“The Murders in the Rue Morgue”と同じく、パリの警視総監G-氏がDupinに事件の謎解きを依頼するという筋立て。今回の議論の一つは、手紙の内容そのものではなく手紙の存在のみに焦点が当てられていることに関してであった。こうしたシニフィエの不在によって、手紙の持ち主と差出人、そしてD-大臣以外に同じ部屋に居たもう一人の人物とその相関関係についてイメージを膨ませることが可能となっており、様々な推測から議論も大いに盛り上がった。更に、数学的な理論が万能ではないという具体例を挙げながら警察の調査方法を皮肉ったDupinが、持論を実践することでD-大臣を出し抜く結末は興味深く、また、そこには事件の解決のためのみならず彼の個人的なリベンジが含まれていた点にも関心が集まっていた。(報告 阿部暁帆)

 

第2回2012年7月15日(日)午前10時40分~午後12時半

“The Murders in the Rue Morgue“(1841)

■レポーター 菅原 高瀬

ポーの代表作である本作品は、多くの参加者がすでに何度も読んだことのある有名な作品だが、あらためて読むと様々な発見があった。まず、Dupinが事件現場を訪れた帰り道にすでに新聞社に寄っていることから、Dupinがこの時すでに事件の真相をつかんでいることに注目した。また、その真相をIに語るまでの時間差にも関心が集まった。オランウータンを黒人奴隷だと考える先行研究にも触れ、オランウータンは“property”であり、だとするとやはり奴隷なのか?など議論は盛り上がった。また、Dupinが読み解く能力によってお金を得ていることから、literacy とはcurrencyであるという指摘もあった。  (報告 高瀬祐子)

*今回の読書会はいつもの研究室ではなく、ゼミ合宿のセッションの1つとして箱根で行われた。

 

第1回 2012年6月4日(月)午後4時半~6時半

“The Man of the Crowd”(1840)

■レポーター 阿部 小宮山

本作品は、語り手がロンドンの町中で見つけたひとりの老人を2晩かけて追跡するという筋書きで、detective storyのはしりともいえる作品である。語り手は本のアナロジーとしてこの男を「読む」ことを試みるが、大衆の中をすり抜けたり同化したりする男は「読むことを拒む本」となる。作中では群衆が流動のメタファーで語られたり、群衆を示す単語としてcrowd, press, populace, company, throngなど多様な表現が出現していると指摘された。中でもpressやthrongには「押し付ける・圧縮する」という意味合いがあり、密集した都市空間の中でひしめく群衆が適切に表現されているとの指摘もあった。また同時に、群衆が個人を追手から守る避難所としても機能していることが浮彫となり、都市の中に犯罪者が紛れる(=犯罪者が群衆の中に身を隠す)可能性も議論された。(報告 小宮山真美子)

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